2009年11月30日

シャローム、イスラエル

以色列』、

地中海沿岸地方』、

ガリラヤ湖周辺』、

ゴラン高原』、

エルサレムの聖地』、

シオンの丘とオリーブ山』、

ベツレヘムへ』、

エン・カレムから死海へ』の続き。

いよいよ最終日突入。『以色列』でも書いた通り、大韓航空の有利なスケジュールのおかげでこの日は遅くまでイスラエルに滞在できる。

ホテルを出てまずはロトの妻の塩柱を見学。旧約聖書によれば、アブラハムの甥ロトはソドムの街に住んでいたが、男色がはびこるなど退廃した街を、神は滅ぼすことにする。アブラハムからの命乞いにより、まずはソドムの実態調査に派遣された二人の天使がロトの家に世話になる。ところが、街の人々は二人を襲おうとする。当然、ソドムは滅ぼされる事になり、ロトだけは脱出を勧められる。妻と二人の娘を連れて逃げ出したロトだが、「後ろを振り返ってはいけない」と言われたにもかかわらず、ロトの妻は硫黄で焼かれる街を振り返ってしまい、塩の柱に変えられてしまった。神話の世界ではタブーは必ず破られる運命にある(?)訳だが、この辺りの宗教学的な解釈なんかも面白いかも知れない。

続いてマサダ(ヘブライ語で「要塞」)へと向かう。古代ローマ帝国とのユダヤ戦争末期、ここに立て籠もるユダヤ人の壮絶な集団自決で知られる。

Massada.JPG

現在でも、イスラエル国防軍の入隊宣誓式はこの地で行われ、「マサダは2度と陥落させない」という言葉で締めくくられると言う。ユダヤ民族にとって、独立を象徴する場所なのだ。この砦の攻略にローマ軍は数年を費やすが、砦の麓にはローマ軍陣地跡が残っている。塩野七生ではないが「ローマ軍は兵站で勝つ」、砦を囲むようにいくつも存在し、攻城の準備が整うまで、幾重にも砦を囲んだローマ軍は満を持して攻め込んだのであった。ちなみに観光客用に砦にはロープウェーで登る事ができるが、足腰に自信がある人用に「蛇の道」と呼ばれる登山道がある。ロープウェーから見ても歩いて登ってくる人が豆粒の様に見える。それを見ていても、ローマ軍の攻撃は大変なものであった事が想像される。

マサダの後は死海沿いのエン・ゲディ(「子ヤギの泉」)へ。オアシスをたたえたこの国立公園には、いくつもの滝があり、前日の死海に続いて泳ぐ事が出来た。

EinGedi.JPG

バニアス遺跡の滝もそうだが(『ゴラン高原』参照)、イスラエルはマサダ砦や死海と言った厳しい自然環境だけでなく、こうした滝やオアシス等、豊かな自然にも恵まれた場所なのだと言うことを再び実感する。

午後になって、帰国も近づいてきたので、エルサレムを通過し一気にテルアビブへ向かう。ドレフュス事件に衝撃を受け、シオニズムを提唱した一人である建国の父、テオドール・ヘルツル。彼の小説「アルトノイラント」(Altneuland、古くて新しい土地)の一節に由来する「春の丘」という意味を持つと言うこの街は、20世紀になってヨーロッパからの移民たちが作り上げた。ドイツのバウハウスを卒業した若い建築家達が大挙して移住し、バウハウス一流の機能美に基づいたデザインで多くの建物を作り上げた。ホワイト・シティ(白い街)の異名を持つテルアビブの現代建築群は、2003年に世界遺産に登録されている。街を歩いていても曲線を生かしたデザインの建物が多く見られる。

WhiteCity1.JPG WhiteCity2.JPG

WhiteCity3.JPG WhiteCity4.JPG

この後、ヤッフォの街へ。拡大を続けるテルアビブは、この聖書の時代からの港町を飲み込み、テルアビブ=ヤッフォとして成長している。疲れもピークのこの最終日、旧市街を散策して旅を終える事になる。

鶏鳴教会でお馴染みのヨハネは、イエスの死後、ここヤッフォを起点にして伝道の旅に出る。そんな使徒ペテロが滞在したのが聖ペテロ教会。

StPeterJaffa.JPG

また地中海に面するこのヤッフォだが、ギリシア神話に登場するアンドロメダの岩が海面に浮かぶ。岩に繋がれたアンドロメダを救ったのがペルセウス。イスラエルはヨーロッパとオリエントを結ぶ中継地点だったわけだが、こうしたギリシア文化の影響も各地に残っている。

そしてヤッフォでツアー「最後の晩餐」を終えた後、テルアビブのベン・グリオン空港へと向かう。さあ、噂に名高いイスラエルの出国審査。巨大なX線装置でスーツケースが検査されるのだが、基本的に全員が荷物のオープン・チェックに連れて行かれる。イスラエルは死海の泥パックがお土産として有名だが、液体系は当然厳重に監視されるわけで、少しでも荷物の中身についてしどろもどろになろうものなら、あっと言う間に荷物が空けられる。

僕も当然の様に列に並ばされて、係官の質問を受ける事になるわけだが、何かがおかしい。何が入ってるのか、どんな配置になっているか…と問い詰められるも、審査官の視線が僕の方じゃなくて後ろを向いている。どうも、言葉も通じないツアー参加者みたく思われたみたいで、このままではいけない!と思い、僕の前に聞いていた内容から、「ペットボトルは入ってない、泥パックが入っている、荷物は全部自分で詰めた!」と慌てて捲し立てると、その勢いに気おされたのか(?)、スーツケースは空けなくて済んだのであった。とはいえ、天下のイスラエルがそんなに甘い訳じゃないから、X線で十分に安全は確認されていたのだろう。

出国時にスタンプも押してもらうが、入国時と違って、今回は係官が勝手に気を利かせてパスポートでなくボーディングパスの裏側に押してしまう。VATの返還窓口に並んでいるときに何気なくパスポートを開いていてそれに気付き、おそらく二度と訪れる事はないだろうイスラエルのスタンプを諦めるか、それでもやっぱり手元に記念で残したいのか逡巡葛藤した挙句、出国審査で時間がかかりもう搭乗まで時間がないにもかかわらず、全力疾走でパスポートコントロールまで戻る事に決定。向こうも息せき切って走ってきたアジア人がスタンプをパスポートにくれ…と要求したのには驚いたかも知れないが、そこで待ってなさい…と言って、無事にパスポートに再度スタンプを押してくれたのだった。

BenGurionStamp.jpg

と言うわけで、「ゴラン高原も訪れる 聖地イスラエルを極める 9日間」ツアーは無事に終了。旅行前に読んで行って、イスラエルの勉強に役立った参考文献は以下の通り。

図説 地図とあらすじでわかる!聖書

図説 地図とあらすじでわかる!聖地エルサレム

この2冊はその名の通り地図や図説で分かりやすくイスラエル、エルサレムについて書かれている。特に聖書は読み通したことがなくて知らない事柄も多いので、大変勉強になった。また、

オール図解 30分でわかる聖書

は、冒頭に「聖書」のストーリーがわかる世界の名画館と題して、聖書にちなむ宗教絵画が数多くカラーで紹介されている。それを見ているだけでも楽しい。もうすこし本格的なイスラエルの通史としては

物語 イスラエルの歴史

があげられる。「ビザンツ帝国時代から初期ムスリム時代へ」、「十字軍時代」、「アイユーブ朝からマムルーク朝へ」等といった章立てが並ぶこの本の目次を見ているだけでも、中東とヨーロッパの歴史の中でイスラエルが占める重要な地位が分かる。近現代のイスラエル問題に関しては、

アラブとイスラエル

が分かりやすい。別の場所での言説を見ると作者は必ずしもイスラエル寄りではない(と言うか、むしろパレスチナ寄り)なのだが、この本は冷静な筆致で90年代初頭の中東和平国際会議までの歴史を分かりやすく解説している。この延長戦上で、直近までの流れを解説して欲しいものだ。

イスラエルは地理的にも心情的にも、多くの人にとってはとても遠い国だと思うが、その長い歴史と豊かな文化に、是非とも触れて欲しい…と、現地に行って来た一人としては思うのだった。周囲に「イスラエル旅行どうだった?」と聞かれて「とっても良かったので是非どうぞ」と言ってまわっているのだが、なかなか賛同者が得られないのが悩ましいところなのだが。
posted by としゆき at 21:35| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | イスラエル紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月29日

エン・カレムから死海へ

以色列』、

地中海沿岸地方』、

ガリラヤ湖周辺』、

ゴラン高原』、

エルサレムの聖地』、

シオンの丘とオリーブ山』、

ベツレヘムへ』の続き。

翌日はエン・カレムへ。イスラエルにはエン・○○という地名が多いが、エンは「泉」を意味する。エン・カレムは「ブドウ畑の泉」。洗礼者(バプテスマ)ヨハネの両親が暮らしていた土地だとされる。さて、聖母マリアはイエスを処女懐胎したわけだが、彼女の親類とされるエリザベツは一足先にヨハネを身篭っていた。ヨハネはイエスよりも先に生まれ、イエスに対して洗礼を施した(そのため、洗礼者ヨハネと呼ばれる)。貧しい獣の皮を身にまとって苦行を行っていたとされ、キリスト教の宗教絵画では、たとえ子供時代であったとしてもそういう姿で描かれる事が多い。あるいは、サロメによって首を切られお盆に乗せられていたりするデザインも有名。



聖母マリアがエリザベトを訪ねた場所とされるのがマリア訪問教会。

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さらに少し歩くと、洗礼者ヨハネ誕生の教会がある。生誕教会同様、ヨハネが生まれた洞窟の跡地が地下に残されている。

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この後、シオンの丘へ戻って昨日行けなかった鶏鳴教会へと向かう。ゲッセマネの園で捕らえられたイエスが最後の夜を過ごした場所であり、一晩中イエスが壁に向かって祈り続けた結果、彼の影が壁に映り込んだ…という伝説もある。鶏鳴教会という名前は、朝鶏が鳴く前に、イエスのことを3度知らないとペテロが嘘をついた事に由来する。

StPeter.JPG

この教会横に残る石段は、19世紀に発掘され、2000年前のものと確認された。カペナウムやヴィア・ドロローサと並び、実際にイエスが歩んだと思われる場所の一つだ。

StPeterSteps.JPG

さて、午後はいよいよエルサレムを離れ、まずはクムランへ。エッセネ派と呼ばれるユダヤ教の一派が禁欲的な生活を送った場所とされ、実際に施設の食堂、写本室、沐浴を行った場所等が発掘されている。洗礼者ヨハネも一時期、クムランに滞在したとされている。古代ローマ帝国によってユダヤが滅ぼされた際、彼らが経典を洞窟に隠しておいたものが、2000年後に死海写本として発見されることになったのだ。

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10世紀頃の物とされ、死海写本発見までは最古の聖書であったアレッポ写本と比較しても、僅か5箇所、それも単語のちょっとした誤植しか違いがなかったと言う。それほど聖書は完全に近い形で伝えられてきたのだ。

クムランを出て、イスラエル観光の目玉の一つ、死海へと向かう。海抜マイナス400メートル以下に位置し、ヨルダン川が流れ込む死海。塩分濃度が33%もあり、生命が育たない事から死海と呼ばれる。実際、ガリラヤ湖の水をなめてみると普通に水なのだが、死海の水は非常に刺激が強い。塩辛いと言うよりも、舌の上で化学反応でも起こしているような強い刺激がある。高度が低いため酸素濃度が高く、紫外線も少なく、そして塩分だけでなくミネラル分も多い事から、療養地としても利用されている。ただ、ここ数年雨量が少なく、死海の水面もどんどん後退しているのが心配されている…との事。

さて、実際に死海に足を踏み入れてみると…浮く、浮く、本当に浮く。最初はバランスを崩してしまいそうになるが、慣れてくると全身の力を抜いて湖面にぷかりと浮かぶ事が出来る。死海と言えば当然やらなければ行けない事があるわけで、このためにわざわざ用意してきた雑誌をおもむろに取り出し、湖面に浮かんでの読書を楽しんだのであった。33%の塩分濃度はかなりなもので、擦り傷があると強烈な痛みで耐えられないと注意されていた。幸いにして怪我もなくやってきたはずなのだが、浮かんでいるうちに指先や足等のちょっとした傷がしみてくる。また、20分以上入っているとお尻の周りがヒリヒリ痛むという注意もあったが、こちらは確かに10分も浸かっていると実感できる。やっぱり死海の名前は伊達じゃない。

ところで、ホテルに戻って日が沈むと、この日は金曜日。安息日入り…と言う事で、エレベーターもシャバット用に半分が停止するのであった。

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posted by としゆき at 18:28| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | イスラエル紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月26日

ベツレヘムへ

以色列』、

地中海沿岸地方』、

ガリラヤ湖周辺』、

ゴラン高原』、

エルサレムの聖地』、

シオンの丘とオリーブ山』の続き。

万国民の教会から再びエルサレム旧市街へ。先日は時間がなくて眺めるだけだった嘆きの壁だが、今回はじっくり訪れてみる事にする。この日はユダヤ教の成人式の日だったようで、壁の周囲は文字通り笛や太鼓で大騒ぎ。ユダヤ教はシナゴーグも男女に分かれているが、嘆きの壁も男女で入り口が違う。女性側からは母親等が身を乗り出すようにして覗き込み、お菓子を可愛い息子の方へ投げ込んでいる。人々は様々な願いを小さな紙片に記して、壁の石の間に挟みこんでいる。僕も「イスラエルの人々がずっと平和に暮らせますように。」と言う紙を置いてきましたとさ。

この後、イスラエルの靖国神社(?)とも言うべきヤド・ヴァシェムへ向かうものの、誰やらVIPが来ている様で物々しい雰囲気。警備員に誰か来てるの?と聞くと、"President of Spain"なんて返してきた。もちろん、スペインに国王はいても大統領はいない。どうも後で聞いてみると、スペインのサバテロ首相が訪れていたようだ。スペインはかつて国土からユダヤ人を追放したという歴史もあり、イスラエル来訪の際にはヤド・ヴァシェムに訪れないわけには行かないようだ。

そんな訳で入場規制となってしまったので、これまた後回しにしてイスラエル博物館に向かうことにする。言わずと知れた死海写本館がある場所だ。先日、予定変更でクムラン訪問が後回しになっているので、まだ死海写本の発見場所は訪れていないのだが、この死海写本館は、写本が入っていた壺のふたの形をしている。

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1947年に発見された死海写本は紀元前3世紀〜紀元前2世紀頃に筆写された、現存する最古のヘブライ語聖典だ。それまでの記録を一気に1000年も遡る大発見だった。ほぼ完全な形で発見されたイザヤ書のレプリカを中心に、貴重な文献が展示されている。

午後になってヤド・ヴァシェム(=ヘブライ語で「記念と記憶」)に取って返す。第二次世界大戦中のナチス・ドイツによって虐殺されたユダヤ人を慰霊する目的で建立された。今までもヨーロッパやアメリカ等で、ホロコースト関係の博物館や、アウシュビッツも訪れてきた(『アウシュビッツとヴィエリチカ』参照)。それらと較べても、ヤド・バシェムは見応えがある。戦争前・戦争中のユダヤ人の生活の様子等が淡々と展示される館内にいると、この「民族の悲劇」(むしろ「人類の悲劇」と言うべきか)を忘れるわけには行かないという思いを強くする。

ヤド・ヴァシェムには日本人に関係するものも存在する。リトアニアの日本総領事館に勤め、ナチスの迫害を恐れて脱出してきたユダヤ人にビザを発給し続け多くの命を救った杉原千畝。彼を顕彰し、ここヤド・ヴァシェムには記念植樹が行われている。杉原の下の名前は「ちうね」だが、発音しにくいと言う事で海外では「せんぽ」と呼ばれており、プレートにも"SEMPO SUGIHARA"と書かれている。

Sugihara1.JPG Sugihara2.JPG

そしてこの後、いよいよベツレヘムへと向かう。エルサレムからは本当にすぐ近くにある小さな街なのだが、パレスチナ自治区に位置し、悪名高い分離壁の向こう側ということで、行けるかどうかも危ぶまれていたのだが、ツアー参加者からの強いリクエストにより、念願かなって訪問へ。警備兵のいるゲートを通って自治区内に入る。分離壁は7メートルもあるというコンクリート壁で、思っていた以上に迫力がある。自爆テロに手を焼いたイスラエル当局がパレスチナ自治区を取り囲む形で設置し、テロリストの侵入を防いでいる。世界中から非難轟々なのだが、イスラエルにとっての第一原理は「安全」であり、実際に壁設置後、テロ事件の件数は目に見えて減っているらしい。ある意味イスラエルは自分達を壁で囲んで守っているとも言え、周囲が何を言っても撤去には応じないだろう。

それはさておき、ベツレヘム最大の観光名所といえば何と言っても生誕教会。キリスト教徒じゃなくても知っている、イエスが誕生した(と、言われている)場所だ。誕生時、いわゆる東方三博士が星に導かれてイエスを訪れる。その星を象って、床には星型のプレートが埋め込まれている。

NativityChurchStar.JPG

外に出ると夕闇に映える生誕教会の美しい姿が。

NativityChurchEvening.JPG

生誕教会のすぐ横には、聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳した聖ヒエロニムスが篭ったと言う聖カテリーナ教会。さらに、生誕教会から少し歩くと、ミルク・グロットがある。イエスとこの場所にいた聖母マリアが、母乳を地面にこぼすと、赤い地面がミルク色に染まったと言う教会。残念ながら夕方遅くて教会は閉まっていたが、外観はなかなか可愛らしい建物。

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この教会の前をうろうろしていると、アラブ人が絵葉書を売りつけようとしてくる。余りにしつこいので買ってみると、意外にお買い得なのでびっくり。エルサレム市内に較べても物価は安く、2リットル入りの水のペットボトルが1ドルだったり、お買い物には向いてるかも?

posted by としゆき at 23:40| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イスラエル紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月17日

シオンの丘とオリーブ山

以色列』、

地中海沿岸地方』、

ガリラヤ湖周辺』、

ゴラン高原』、

エルサレムの聖地』の続き。

エルサレム旧市街城壁の南側には、南の壁考古学公園がある。神殿時代の発掘物の展示や、神殿を訪れた人々の様子を再現した映像等が見られる。内部見学のコース途中で、城壁の上を歩ける部分もあり、なかなかの眺め。

MuseumWall.JPG

その後、イエスとその弟子一行が、いわゆる「最後の晩餐」を行ったと言う部屋へ。と言っても、現在の建物は十字軍が建て、オスマン・トルコ時代にはモスクにもなった建物。この部屋に限らず、エルサレムにはイエスがどうした、マリアがこうした…と言った場所が多いが、ある程度は割り引いて考えないといけないだろう。たとえば『エルサレムの聖地』で書いた聖墳墓教会はゴルゴダの丘跡に建っているはずだが、ゴルゴダ(骸骨)型の岩があり、真のゴルゴダはこちらでは?とも言われる場所が東エルサレムにあったりする。

最後の晩餐の部屋近くには、ダビデ王の墓とされる棺が置かれたシナゴーグがある。こちらも、本当のダビデの墓なのかどうかは異論もあるようだが、多かれ少なかれ、聖書時代ともなればそういうものなのだろう。そしてマリア永眠教会へ。

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聖母マリアを祀っているエルサレム最大の教会で、永眠するマリアの像が横たわっていたり、(イエスでなく)マリアが十字架に磔刑になった彫刻があったり、聖書に登場するルツ等、様々な女性を描いたモザイク天井ががあったり、女性をテーマにしたなかなか面白い教会だ。

この辺りは旧市街の南西に位置する、いわゆるシオンの丘で、イスラエル建国運動であるシオニズムの語源となった場所だ。シオンの丘と言えばもう一つの見所は鶏鳴教会…なのだが、もう夕方遅くなってしまったと言う事で、鶏鳴教会行きは(先日のクムラン同様)後日に回してオリーブ山へと向かう。オリーブ山は神殿の丘東側に位置し、キリスト教徒、ユダヤ教徒双方にとっての聖地だ。終末の日に救世主(メシア)がオリーブ山に立ち、旧市街にある8つの門の中で唯一閉ざされている「黄金門」が開き、死者が復活して天国へと導かれるという。このため、オリーブ山と旧市街の間はユダヤ人墓地となっている。意地の悪いムスリムは、さらにその墓地と旧市街の間にお墓を建てている…なんて事もあるらしい。

オリーブ山から旧市街の眺めと言うのはエルサレム観光に欠かせない構図であり、どんなイスラエル・ツアーでも必ず使われる写真だ。夕闇が迫る中、神殿の丘に灯りが灯り、旧市街に黄金の岩のドームが映える姿はとっても綺麗だ。

ViewFromMtOlive.JPG

ちなみに翌朝再びオリーブ山を訪れて、今度は朝の景色を楽しむ。

ViewFromMtOliveMorning.JPG

そしてそのままオリーブ山を徒歩で下っていき、主の涙の教会へ。エルサレム滅亡を予期し、イエスが涙したという事にちなむ教会で、涙の形をしている。

DominusFlevit.JPG

また、入場こそしなかったものの、旧市街からもオリーブ山からも独特の外観が印象的だったマグダラのマリア教会を目にする。いかにもロシア正教といったデザインな可愛らしい教会だ。

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さらに下ってゲッセマネの園へ。ゲッセマネはヘブライ語で「油絞り」の意味で、イエスの時代からオリーブの木が実っていた。最後の晩餐を終えたイエスは弟子と共にこの場所を訪れ、イスカリオテのユダによる接吻を受け、ローマ官憲に逮捕された場所だ。この園に隣接するのが万国民の教会。福音書作者マルコの家とも言われ、4つの福音書の作者の彫刻像を従えたモザイク壁画のファサードが印象的な教会だ。

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posted by としゆき at 21:12| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | イスラエル紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

エルサレムの聖地

以色列』、

地中海沿岸地方』、

ガリラヤ湖周辺』、

ゴラン高原』の続き。

いよいよ本日からエルサレム観光の開始。エルサレム、特に旧市街は街全体が観光名所というか遺跡だらけなのだが、まずは何と言っても嘆きの壁だろう。かつてこの場所にはソロモン王による神殿が建っており(第一神殿)、バビロン捕囚を経てエルサレムに帰還したユダヤ人たちが神殿を再建(第二神殿)、さらに紀元前20年、ヘロデ大王が神殿の改修を行った。紀元70年の古代ローマ帝国との戦いでエルサレムは炎上、神殿は破壊され、西側の壁の一部だけが残された。爾来、多くのユダヤ人が壁の前で祈りを捧げ、嘆きの壁と呼ばれる。エルサレム市内でユダヤ人にとっての至聖の場所だ。

WailingWall.jpg

現在の嘆きの壁は時代と共に積み重なった地層の上に立っており、かつての第二神殿時代の地面は現在よりもっと地下深いところに位置している。嘆きの壁沿いに掘り起こしていくと、当時の地層が見つかったのだ。現在も発掘が続くこの場所は嘆きの壁トンネル・ツアーとして見学可能。嘆きの壁自体は原則24時間入場自由なのだが、このトンネル・ツアーは大人気で予約しないと見に行けない。僕達のツアーに割り振られたのが7時40分からと言うことで、朝早く出発。トンネル内にはヘロデ王の時代の柱跡や、水道跡も見られる。トンネル内でも熱心に祈りを捧げるユダヤ人の女性がいたりする。

WesternWallTunnel.JPG

長いトンネルを抜けるとそこは出口…の筈なのだが、何故だか出口が閉まっていた。本来なら出口を出ればそこは神殿の丘のはずだったのだが、遠回りして入り口に戻る。さて、神殿外壁が現在、嘆きの壁として残っているとするならば、神殿跡地そのものはどうなっているのか?旧約聖書によると、ユダヤ人の祖たるアブラハムは我が子イサクを神に捧げようとした。彼がイサクをまさに生贄にせんとした場所がモリヤの丘の聖なる岩だ。一方、イスラム教によれば、この岩は預言者ムハンマドが昇天した場所であり、7世紀には黄金の丸屋根を持つ美しい岩のドームが建設された。そう、エルサレム神殿跡地は、今ではイスラム教の聖地となっているのだ。実際、この岩のドームはムスリム(イスラム教徒)にとって、メッカの「カアバ神殿」、メディナの「預言者のモスク」に続く、第三の聖地とされている。

DomeOfTheRock.jpg

以色列』でも触れたが、旅行前に成田空港でこの神殿の丘には入れないかもしれない…という警告を受けた。ところが実際に来て見たら拍子抜けするほどに街は静かで、何の問題もなく神殿の丘に登る事が出来た。もっとも丘には入れても、現在のところ、非ムスリムは岩のドームには入れない。アブラハムの、そしてムハンマドの岩は、天地創造の際の基礎石となったとも言わており、ムハンマドの足跡・大天使ガブリエルの手の跡が残っていると言う。悲しいかなドームの外でアラブ人が売っていた絵葉書でも見て内部を想像するしかないのであった。

ユダヤ教の嘆きの壁、イスラム教の岩のドームと来たら、今度はキリスト教の出番…と言う事で、ヴィア・ドロローサ(「悲しみの道」)を巡ってイエスが処刑されたゴルゴダの丘跡に建つと言う聖墳墓教会へと向かう。途中、14個の留(ステーション)があり、それぞれに逸話が残されている。(1)死刑判決を受けた場所、(2)十字架を背負わされた鞭打ちの教会、(3)最初に躓いた場所、(4)聖母マリアがイエスを見た場所、(5)クレネ人のシモンがイエスに代わって十字架を担いだ場所、(6)ベロニカがイエスの汗と血を拭った場所、(7)二度目に躓いた場所、(8)エルサレムの娘達に「自分と自分の子たちのために泣きなさい」と諭した場所、(9)三度目に倒れた場所、そしてここからは聖墳墓教会の内部へと入って行き、(10)衣を脱がされた場所、(11)十字架に釘付けにされた場所、(12)十字架が立てられ亡くなった場所、(13)聖母マリアが遺体を受け取った場所、そして(14)イエスの墓所、となっている。最後の第14留は聖堂になっており、墓石に触れようとする人々が列を成して待っている。待ち時間1時間以上と言う事で、泣く泣く諦めて、十字架から下ろされたイエスが香油を塗られた岩で我慢する。

HolySepulchre.JPG

同じキリスト教とは言っても、ローマ・カトリック、ギリシア正教、アルメニア正教、エチオピア正教、はたまたコプト教等、様々な宗派が存在する。キリスト教にとっても聖地であるここエルサレムには各宗派の教会がひしめき、ヴィア・ドロローサ各ステーションや聖墳墓教会もそれぞれが管理している。聖墳墓教会の門にいたっては各宗派が所有権で揉めているため、毎朝入り口の門を開けるのはアラブ人の仕事になってしまっているらしい。

posted by としゆき at 22:42| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イスラエル紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

ゴラン高原

以色列』、

地中海沿岸地方』、

ガリラヤ湖周辺』の続き。

さて、翌日はさらに北上してゴラン高原へ。ゴラン高原といえば知る人ぞ知るイスラエル・シリア国境。1967年の第三次中東戦争(「六日間戦争」)で、イスラエルが電撃作戦によってシリアから併合。さらに1973年の第四次中東戦争(「ヨム・キプール戦争」)ではシリアに一部を奪われるも、イスラエルが反転攻勢で再奪還。現在でも我が日本の自衛隊を含む国連PKOが展開する…という文字通り(元)紛争地帯。何といってもゴラン高原をイスラエル領として認めているのは、イスラエルだけだし。

ただ、同じく「危険地帯」とされるヨルダン川西岸地区やガザ地区に較べれば、イスラエルががっちり占有していることもあって、逆に安全だったりする。そんなゴラン高原訪問の主目的は、ワイナリー。ゴランはイスラエル最高峰ヘルモン山を擁し、酸性の火山灰土でミネラル分を多く含んで、ワイン造りには適した土地だとのこと。

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ガイドさんがついてワイン工場内の見学、3種類の製品(「ヤルデン」、「ガムラ」、「ゴラン」)の試飲。僕自身は甘目のワインが好きだが、最後に飲んだデザートワインは他の人にも大人気でみんなお土産に買っていた。ちなみにヘブライ語で「乾杯」は「レハイム」。イスラエル産ワインを飲むときは是非どうぞ。

さて、朝からほろ酔いで上機嫌だが、ゴラン高原を走っていると地雷が埋まってるとかで鉄条網が張ってあったり、バスの車窓から普通に捨てられた戦車の残骸が見えたりして、敵対国との国境線を意識させる。実際に、国境線沿いの展望台からシリア側を眺める事ができて、シリア国旗の掲揚台やモスクが目に入る。

その後、バニアス遺跡へ向かう。カイザリアを造った(『地中海沿岸地方』参照)ヘロデ大王の子・ピリポが造ったため、ピリポ・カイザリアの別名を持つ。牧神(パン)を祭ったヘレニズム時代のギリシア遺跡が残っているが、アラビア語には"p"の発音がないとかで、訛ってバニアスと呼ばれるようになったと言う。

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バニアス遺跡はヘルモン山の雪解け水が豊かに流れ、イスラエルの砂漠のイメージとは随分と違う。この水はガリラヤ湖に注ぎ、ヨルダン川を経て死海にまで流れていく。実際にイエスの時代でも、ガリラヤ湖周辺は豊富な魚に恵まれ、イエスが伝道していった漁師たちというのは実は有産階級だったとのこと。さらにハイキング・コースを歩いていくと、前方にバニアスの滝が見える。

BaniasFall.JPG

ワインで始まり滝に涼んだ後、再び南下してガリラヤ湖地方へ戻る。旱魃でガリラヤ湖の水位が下がった翌年、1986年に湖底から発見されたと言う古代ガリラヤ船を見に行く。長い間の水没で痛んだ本体を合成蝋に浸し、その後14年もの間、乾燥・保存された。2000年になってやっと水槽から出され、ギノサルというキブツ内にあるイーガル・アローン博物館に展示されるようになった。

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炭素14分析によって紀元前後1世紀頃の物と同定され、イエスの船と呼ばれるようになった(実際にイエスが乗ったという訳ではない)。

さて、本来の予定では、この後に死海文書発見の地、クムランへ向かうはずだったのだが、時間が押してるということでクムランは後日にリスケ。この辺りのスケジュール調整の柔軟さは素晴らしい。バスはヨルダン川西岸地区の最東端、ヨルダン川沿いにヨルダンを臨みながら国道90号線を南下する。90号線は、外務省による危険情報でも「西岸(エリコ、ベツレヘム、ラーマッラーおよびこれら3都市とエルサレムを結ぶ幹線道路並びに西岸内の国道90号線沿線を除く)」云々と述べられている通り、ヨルダン川西岸地区でも一応安全とされている。それでもエリコはバスを止められないとかで立ち寄ることなく通過。「地球の歩き方」でも「通常のイスラエル・ナンバーのタクシーではエリコの街には入れず」等と書いてある。

ところが、僕達が参加したツアーの次の日程(10月31日出発)以後は、エリコもベツレヘムも訪れると言うのだ。『以色列』で書いたように、ベツレヘム行きを密かに狙っていた僕もさすがにエリコは諦める。この日程調整の柔軟さを是非発揮して、ベツレヘムだけは行ってみたいものだが…。

そんなことを考えている間に、バスはついにエルサレムに到着するのだった。
posted by としゆき at 23:58| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | イスラエル紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月05日

ガリラヤ湖周辺

以色列』、

地中海沿岸地方』の続き。

ナザレ近郊にあるカナ。カナと言えば、カナの婚礼。結婚式中、ワインがなくなってしまったことを聞いたイエスが、水をワインに変えたという伝説がある。その跡地に建っているのがカナの婚礼教会。

ところで、ツアーの中に牧師さん夫妻がいらっしゃって、結婚50周年の金婚式祝いでイスラエル旅行に来ているのだと言う。25年前の銀婚式でもイスラエル旅行にやって来たそうで、この婚礼教会で一言ご挨拶を頂いた。実際に婚礼教会で結婚式を挙げる人も多いのだという。

ここから一路ガリラヤ湖へと向かう。ガリラヤ湖と言えばイエスが布教活動を進めた場所でもあるが、この地方の中心都市がティベリヤ。そしてティベリヤ名物とされるのがセントピーターズフィッシュ、つまり聖ペテロの魚。イエスの12使徒の一人、ペテロがガリラヤ湖で魚を釣り上げたところ、銀貨を咥えていた…という伝承から、おめでたい料理として知られる。

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ちょっと骨の多い白身の淡水魚だが、ライムを搾って食べる。ガイドさんが「美味しくないと言う人に会った事がない」と豪語するだけあって、まあ、それなりに美味しい。添乗員さんが隠し玉、お醤油を持参しており、この淡白な魚がまたお醤油と合う。写真のコインは僕が撮影用に咥えさせたものなので念の為…。

お腹も満たしたところでカペナウムへ。イエスはナザレを去ってここ、カペナウムに住んだらしい。シナゴーグ等の遺跡が残されているが、ペテロの住居跡とも言われる玄武岩の家の跡もあったりする。

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さらにガリラヤ湖畔、タブハ村。ここには「パンと魚の奇跡の教会」がある。「カナの婚礼」同様、イエスがたった2匹の魚と5つのパンを増やして、5000人の人々を満腹にさせたと言う奇跡の伝承にちなむ。ビザンツ時代のモザイクでパンと魚が美しく形作られているが、ロープで近づけないようになっていて、遠めにしか見えない。三脚を竿の様にして何とか撮影してみたが…

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教会シリーズは続き、ペテロ首位権の教会。漁師のペテロとアンデレの兄弟がイエスの弟子となったところだ。イエスは二人を誘う時、魚でなく人間を採る漁師になれ…と言ったと言う。処刑後に復活したイエスが弟子と食事を取ったという岩(メンザ・クリスティ=キリストの食卓)が祭壇となっている。

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そしてこの日最後に訪れたのが山上の垂訓教会。祝福の山とよばれる丘に建ち、「心貧しきものは幸いなるかな」等、イエスの8つの祝福の言葉が記されている。「狭き門より入れ」といった教えもここで生まれ、イエスが12使徒を選んだのもこの場所だとされている。

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2009年11月04日

地中海沿岸地方

以色列』の続き。

翌朝、テルアビブを立って一路カイザリアへ。紀元前1世紀にヘロデ王が造った街であり、その名の通りローマ皇帝にちなんで名付けられた。ローマ帝国が支配下に置いたこの街、古代ローマといえば当然思い浮かべるであろう、円形劇場とローマ水道の遺跡が残っている。この円形劇場は現在でもコンサート等に用いられているという。

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続いてメギドへ向かう。ヘブライ語で「ハル」は山を意味するが、ハル・メギド、すなわち、こここそが「ヨハネの黙示録」でお馴染みのハルマゲドンの語源となった街だ。20層以上に渡る地層が重なり、丘の上から周囲がよく見通せる。歴史的にも交通の要所で、カナン人達の住んでいた時代(紀元前3000年頃?)の階段が発掘されている。また、紀元前9世紀頃に作られたという地下水道のトンネルも発見されている。

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そして午後、地中海の港町、アッコーへ。ここには12世紀に建てられた聖ヨハネ騎士団の本部があり、その要塞跡を見ることができる。急いで建築しないといけなかったため、砂岩で造られているそうだが内部には多くの広間や食堂、病院等が並び、かなり立派な建物だ。要塞からの脱出路や、テンプル騎士団による地下トンネルも掘られている。アッコー旧市街には隊商宿があり、いかにもアラブっぽいスーク(市場)もあって香辛料や水パイプ等を売っている(現在、アッコー旧市街にはもっぱらアラブ人が生活している)。

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この日はハイファに宿泊して、翌朝市内のカルメル地区よりバハイ教寺院を望む。ハイファはテルアビブ、エルサレムに次ぐイスラエル第3の都市。バハイ教というのは、イランで誕生したバーブ教が前身で、バーブ教はイスラム教からの離脱を宣言したものの、教祖バーブは処刑されてしまう。分裂した教団にあって、信者をまとめて新たに設立されたのがバハイ教。イスラエルといえばユダヤ教、と思いがちだが、アッコーのアラブ人の様にイスラム教徒を始め、多くの宗教が存在している。残念ながらバーブ廟は修復工事中だったが、2008年に世界遺産に選ばれたばかりのバハイ庭園はなかなかの眺め。

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この後、イエス・キリストの父(母マリアは処女懐胎だそうなので、母の夫、と言うべきか?)であるヨセフの故郷・ナザレへ。ナザレ一番の見所は、マリアが大天使ガブリエルより受胎告知を受けた場所に建つという受胎告知教会。アヴェ・マリアから"A"の文字を象ったデザインをしている。

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この教会の中庭と内部には、各国から贈られた様々なマリアの肖像が飾られており、それぞれお国柄が見られて面白い。いくつか目に付いたものを並べてみると…

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もちろん、日本からのマリア像も飾られている(ルカ長谷川作「華の聖母子」。こちらは屋内に展示)。

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受胎告知教会の隣には、石工大工であったヨセフの仕事場跡に建てられた聖ヨセフ教会がある。そこのお手洗いに行ったところ、見事に外国為替相場を反映したチップ額が要求されていておかしかった(この時1シュケルは25円程度)。ちなみに好都合な事に、ユーロには20セント硬貨が存在する。

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2009年11月03日

以色列

イスラエル…と聞いてどんな印象を持つだろうか。旧約聖書に見るような、ユダヤ民族の悠久の歴史を思い浮かべる人もいるだろうし、新約聖書に見るように、イエス・キリスト、あるいはキリスト教を思い浮かべる人もいるだろう。地政学的に重要な位置を占めることから諸外国に蹂躙されてきた歴史や、あるいは1948年のイスラエル建国・その後の中東紛争等を思い浮かべる人も多いだろう。一方でイスラエルは豊かな自然でも知られる。誰しも世界7不思議として死海に浮かんで本を読む写真を見たことがあるのではないだろうか?

僕自身も子供の頃から憧れ、一度は行ってみたい国の一つだった。ところが、「地球の歩き方」も2002〜2003年版が出たっきりちっとも更新されないは、外務省からは「渡航の延期をお勧めします」やら「渡航の是非を検討してください」やらの危険情報が出るは、自爆テロ等による治安の悪化を背景に、なかなか旅行に行こうという決断のつかない時期が続いた。

情勢が落ち着いて、「地球の歩き方」が更新されたら行く事にしよう…とずっと待っていたら、いよいよ今年の1月17日に、2009〜2010年版が出版されることになった。ところが昨年末からガザ地区で戦争が始まってしまい、果たして旅行なんて行けるのだろうか…と心配だった。でも、戦争も一月程で終了した様だし、現地の情勢も何とか落ち着いてきてる…という事で、初志貫徹、今年の10月にイスラエル旅行に行く事を決定したのだった。

さて、残念ながら日本からイスラエルへの直行便はない。どこかで乗り継いで行くわけだが、よく見るのはウズベキスタン航空。タシケント経由何ていうマニアックな航路を取る。欧州系の航空会社も結構乗り入れていて、僕も最初はスター・アライアンスのマイレージを使って、オーストリア航空のウィーン経由を狙っていた。

ところが、乗り継ぎもあんまり便利ではないし、これらの航空会社はイスラエル入りが概して深夜や早朝になってしまう。たとえばJTBなんかもツアーで使っているウズベキスタン航空は、成田20時→タシケント翌3時45分・タシケント5時55分→テルアビブ8時半であり、なんとそのままツアー行程に突入。帰りもテルアビブ11時半→タシケント19時半・タシケント22時15分→成田翌10時10分と、初日・最終2日間の時間の使い方がもったいない。

ちなみにオーストリア航空の場合、成田12時5分→ウィーン16時・ウィーン20時→テルアビブ翌3時半。帰国便はコードシェアでいろいろあるが、どれも成田には朝9時ごろ到着…という事で、やっぱり無駄が多い。

ところがここに、大韓航空というエースが登場する。成田→ソウルは朝からいろいろ飛んでいて、乗り継ぎはソウル17時40分→テルアビブ22時10分。初日のうちに現地に到着して、機中泊でなくホテルでちゃんと寝てから観光に入れる。さらに帰国便はテルアビブ23時55分→ソウル翌17時15分・ソウル18時40分→成田20時45分と、帰国便の日はギリギリまで旅行を楽しんだ後、成田にも夜到着するので移動の効率性ということであれば、これに敵うフライトはないだろう。と、言う訳で、大韓航空で行くツアーに参加する事にした。旅程は9日間だが、上記の通り移動に用いるのは正味2日間だけ。JTBなんかの10日間ツアーと比較しても遜色ないのだ。

さて、出発当日に成田空港に行ったところ、旅行会社の人から一枚の紙が手渡される。『イスラエル:エルサレムにおけるイスラエル警察とアラブ系市民の衝突について(注意喚起)(2009/10/07)』と題された外務省からの注意事項。聞けば、9月末、10月頭にエルサレム旧市街でイスラエル警察とアラブ系市民の衝突が発生し、「神殿の丘」への入域が禁止されていると言うのだ!神殿の丘といえばエルサレムのランドマークである岩のドームが立つ観光名所。後で述べるが、パレスチナ自治区内にあるベツレヘム行き(ツアーの公式日程には入っていなかった)を密かに目指していた僕としては、ベツレヘムどころかエルサレム市内でさえ観光がままならないのでは…と愕然とする。まあ、時間も経っているし、現地の事情は行ってみないと分からないと腹を括って飛行機に乗り込む。

まあ、機体が古くて今どき座席ごとに画面がなかったり、機内食メニューには毎食ビビンパがあったりと、いかにも大韓航空っぽかったりするのだが、それは我慢しながら無事イスラエルに到着。イスラエル旅行者には有名な話なのだが、イスラエル入国印がパスポートにあると、一部のアラブ諸国(イエメン、シリア、クェート、レバノン、イラク、スーダン、サウジアラビア、リビア)には入国できなくなる。イスラエル当局もそれはよく知っていて、パスポートでなく別紙に入国スタンプを押してくれたりする。僕なんかはむしろスタンプが欲しい人だから、パスポートに押してくれ…とわざわざリクエスト。

ちなみにイスラエルは入出国時の検査が厳しいと言う噂だったが、入国時はそれほどでもなく、「何しに来たか」「何日間の滞在か」「グループ旅行か」「グループは何人組か」「イスラエルは初めてか」と聞かれただけ。「だけ」って、これでも結構聞かれる方だとは思うが、帰りに知るように出国時の方がこれに輪をかけて厳しいのであった。

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posted by としゆき at 13:14| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イスラエル紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする