2007年12月25日

さらばポーランド

波乱の波蘭』、

ワルシャワ市内観光』、

ピアノの詩人』、

雪のワルシャワ』、

クラコフへ』、

アウシュビッツとヴィエリチカ』、

クラコフ市内観光』の続き。

クラコフ市内西方にコシチュシコ山がある。第2回ポーランド分割後、タデウシ・コシチュシコがロシア等に対して反乱を起こした際に立てこもった要塞がある。この人物、アメリカ独立戦争にも参加し、あのジョージ・ワシントンの副官でもあった。このコシチュシコ山の要塞には小さな蝋人形館が併設されており、ポーランド史上の有名人が並んでいるが、いかんせんほとんど分からない。ショパン等の像もあるが、肖像画等とは余り似てないし…。やはり蝋人形はロンドンのマダム・タッソーが一番出来が良い気がする。地元クラコフ出身のヨハネ・パウロ2世も大きく取り上げられているのが目立った。クラコフ・バリツェ空港は別名「ヨハネ・パウロ2世空港」だ(ちなみにワルシャワ・オケンチェ空港は別名「フレデリック・ショパン空港」)。

その後、チャルトリスキ美術館でダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」を眺める。この美術館は意外に充実していて、王室のコレクションを展示しているが、突然ミイラが置いてあったりしてびっくりする。ポーランド王室もエジプト財宝に興味があったのかもしれない。

続いてヤギェウォ大学のコレギウム・マイウスを見学。ヤギェウォ大学はポーランド初の大学であり、中欧ではプラハのカレル大学に次ぐ歴史を持つ(創立は1364年)。やはりヨハネ・パウロ2世も在籍していた。ポーランド出身の映画監督アンジェイ・ワイダが寄贈したオスカー像が飾ってあったり、コペルニクス時代の測量装置が普通においてあったり、なかなか見ていて楽しい。

午後には日本美術・技術センター「マンガ」館。日本芸術のコレクターであったフェリックス・"マンガ"・ヤシェンスキのコレクションを展示している。設計は磯崎新。ちなみにこの「マンガ」と言うのは、葛飾北斎の画集「北斎漫画」由来のもの。浮世絵の展示がメインだが、何故か僕が行ったときはインドネシアの布地である「バティック」の展示や、トヨタ・ハイブリッド車のイベントも行われていた。天皇皇后両陛下も訪れたこの建物付設のカフェテリアでは日本食も出していて、「てりやき定食」に挑戦。味自体は普通だったが、御新香として人参とそら豆が出てきたのはご愛嬌。

夕方、「シンドラーのリスト」でお馴染み、オスカー・シンドラーが経営していた工場へ。工事中のため残念ながら内部の見学は出来なかった。映画のラスト、シンドラーの工場職員が金歯から作った指輪に刻んだ、「一人の命を救うものは世界を救う」という言葉がプレートで埋め込まれていた。

翌朝、最終日と言う事でカジミエーシュ地区(ユダヤ人地区)を再訪。雪が再び強く降る中、数々のシナゴーグや、ユダヤ人墓地を巡る。ちなみにシナゴーグの中では頭頂を露出しないように、帽子を被る事が求められる。第2次大戦後は、ポーランド国内のユダヤ人は激減してしまったが、ここクラコフには今もユダヤ文化が脈々と受け継がれている。

戦争で徹底的に破壊されたワルシャワと違い、クラコフには古くからの建造物や歴史的な遺物が残されている。その意味でワルシャワが東京ならクラコフは京都に近い、という人もいる。日本人はポーランドの歴史に余り詳しくないのだが、ロシア・ドイツ・スウェーデン等周辺諸国からの影響を受けながらも現在まで生き延びてきたポーランド人。彼らの自由を求める粘り強さと、豊かな歴史は、もっと注目されても良いかもしれない。
posted by としゆき at 19:25| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポーランド紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月23日

クラコフ市内観光

波乱の波蘭』、

ワルシャワ市内観光』、

ピアノの詩人』、

雪のワルシャワ』、

クラコフへ』、

アウシュビッツとヴィエリチカ』の続き。

相変わらず膝の痛みが引かず、乾燥しているためか唇の周囲がボロボロになってしまい、そのせいなのかどうか、髭も伸びない(?)。天気は晴れていたが、移動の事を考えて翌日は「クラコフ市内ツアー」に参加することにした。まずはクラコフ市内の旧ユダヤ人地区へ。戦前のポーランドは33万人のユダヤ人口を抱え、クラコフには6万人が住んでいたという。映画「シンドラーのリスト」もクラコフが舞台であり、クラコフ近郊アウシュビッツが「ユダヤ人問題への最終的解決(=ジェノサイド)」の舞台として選ばれる事になる。シンドラーの工場も見てみたかったのだが、それにはヴィスワ川を渡って南岸、旧ゲットーのあった地区に行かないといけないとかで、ツアーには含まれていなかった。

続いて一行はクラコフの象徴、ヴァヴェル城へ。ジグムント3世によってワルシャワに遷都されるまで、ポーランド歴代の王が居住した城だ。何故かナウマン象の牙が飾られた重厚な門をくぐるとそこはヴァヴェル大聖堂。カジミエーシュ3世(大王)や、ヤドウィガ女王等が葬られている。カジミエーシュ大王は対外進出を進めてポーランドの版図を広げると共に、ユダヤ人等の移民受け入れ、大学の創立、法典の整備等、ポーランドの大国化に貢献した。「ポーランドを木造から石造りに変えた」とも言われる。また、ヤドウィガはリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名ヤギェウォ)と結婚し、ポーランド・リトアニア連合(ヤギェウォ朝)を成立させている。ポーランド・リトアニア連合は「タンネンベルグの戦い」でドイツ騎士団を破り後に支配下に置く。その後、ヤギェウォ王朝断絶後も連合王国として現在のロシア西部からドイツ東部に至る屈指の大国として存在した。

旧王宮内部の博物館には、フランドル地方で製作された貴重なタペストリーのコレクション等、王室の財宝が展示されている。クラクフにとってはある意味、黄金時代であり、地元ガイドの口調も滑らかだ。

ヴァヴェル城を後にして、多くの教会を横目に眺めながら中央市場広場へ。クリーム色の美しい織物会館を中心に擁し、多くの観光客であふれるクラコフの中心だ。広場に面して位置するのは聖マリア教会。国宝に指定されていると言うヴィオット・ストウオシ聖壇の豪華さには目を見張る。かつてモンゴルの襲撃を受けたとき、聖マリア教会の塔からは敵襲を伝えるラッパが吹かれた。モンゴル兵によって射殺されてしまうのだが、今でも1時間ごとに塔の上からラッパが吹かれる。ガイドによると、消防士がこの役を担っているのだが、勤務中は等から降りられないため、内部には宿泊も出来る設備が整えられていると言う。

市内ツアーはここで終了。中央市場広場から北に向かい、到着日にタクシーから眺めたバルバカンと、それに連なる城壁を眺める。城壁にはフロリアンスカ門が開かれ、今では観光客相手に絵を売る人たちでにぎわう。広場に戻ってお土産屋さんの屋台が並ぶ織物会館内部を散策。さらに本日より、広場内にはクリスマスマーケットが立ち、既に屋台の準備が始まっている。また夜に来ることにして、膝の痛みが引かないのでホテルに戻ることにする。

サロンシップみたいなものはないかとホテルのジムに行ってみるが、うまく話が伝わらない。ホテル受付で尋ねるも、「怪我した時に貼る、薬の塗りこめられた布みたいなもの」とか何とか伝えるも出てきたのは絆創膏…。仕方がないので薬局を教えてもらって行ってみる。ポーランド語で薬局は"APTEKA"と言うが、ワルシャワでは同じチェーン店の薬局が数多くあり、"APTEKA"と言う名の店(「マツモトキヨシ」みたいなものか)と勘違いしていた。処方薬を求める客でごった返す薬局でも結局、湿布薬は手に入らず。とりあえず痛み止めの錠剤と塗り薬を購入して帰ることにした。
posted by としゆき at 00:25| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ポーランド紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月22日

アウシュビッツとヴィエリチカ

波乱の波蘭』、

ワルシャワ市内観光』、

ピアノの詩人』、

雪のワルシャワ』、

クラコフへ』の続き。

翌朝も雪が降っていたので、ツアーに参加することにした。目的地は、今回の旅の主目的の一つでもあるアウシュビッツ。クラコフ近郊のオシフィエンチム市に建てられていた、いわずと知れたナチス・ドイツの「絶滅収容所」だ。行きのバスの中でアウシュビッツの紹介DVDが流される。淡々としたナレーションと共に映し出される収容所での生活は余りにも悲惨で、どこか遠い世界の話と思っていたアウシュビッツに、いよいよやって来たんだという思いがしてくる。

アウシュビッツというと必ず引き合いに出される"ARBEIT MACHT FREI"(働けば自由になる)という看板も目にする。囚人によって作られたものだが、せめてもの抵抗と言うことで"B"の文字が上下逆に取り付けられている。当時の囚人たちは、この皮肉な看板を横目に見ながら何を考えていたのだろうか。

ArbeitMachtFrei.jpg.JPG

アウシュビッツ内には、囚人たちから奪われた鞄、靴、洋服、メガネ、ブラシ、義手・義足等が、文字通り山積みになっている。初めのうちは、ここに送り込まれると写真撮影され、番号を振られていたが、戦争末期になると到着と同時にガス室送りとされる例が増え、そのため一体何人が犠牲になったのか、今に至るも不明のままだ。専門家によると約150万人が亡くなったといわれている。囚人4人を1メートル四方もないような狭い空間に立ったまま閉じ込める懲罰房、餓死するまで拘置され続ける独房、銃殺が行われていた「死の壁」等、ありとあらゆる暴力装置が並ぶ。

意外なことだが、収容所外部に住む地元住民との間に秘密の交流も行われていた。食料を運び込んだり、ナチス親衛隊(SS)による犯罪資料が持ち出されたりしていた。脱走を幇助したとして地元ポーランド人が集団絞首刑に処せられてもいる。チクロンBによる殺人が行われたガス室、遺体を焼いた焼却炉跡地も生々しい。焼却炉脇には、アウシュビッツでは収容所元所長のルドルフ・ヘスが絞首刑に処せられた絞首台も現存している(ちなみに、ナチス副総統のルドルフ・ヘスとは別人)。

ところで、アウシュビッツの近くには、アウシュビッツよりも広大な「第2収容所ビルケナウ」や、囚人を労働力として用いていた「第3収容所モノビッツ」が存在している。監視塔の建つ門壁を越え、まっすぐに引かれた鉄道の線路というのもアウシュビッツのイメージとして良く用いられる。これはビルケナウ側に位置しており、映画「シンドラーのリスト」でも登場した。なお、「シンドラーのリスト」ではセットだったが、初めて収容所内でのロケが許されたのが日本のテレビドラマ「白い巨塔」だったらしい。

birkenau.jpg.JPG

元々、ポーランド軍兵舎だったアウシュビッツは、曲がりなりにもレンガ造りの建物だが、ビルケナウは厩舎を改造したような粗末な小屋だ。隙間風が吹き込み、トイレも剥き出し、一つの段に8人がぎゅうぎゅう詰めで寝るという、考えただけでも身震いしてしまうような環境だ。馬52頭分のスペースに、1000人以上が押し込められていたという。

お土産屋では、アウシュビッツの案内書がわずが3ズロチで売られている。利益追求よりも、アウシュビッツを知ってもらおうと言う姿勢なのだろう。またお土産屋の店員は言葉に堪能なようで、「どこの方ですか?」と訪ねてチェコだよ、と聞くと、いきなりチェコ語で応対し始めたり、僕には「ゴ(=5ズロチ)」と話しかけたり。また、アウシュビッツには「地球の歩き方」でも紹介されている日本人ガイド(中谷剛さん)がいる。僕が見て回ったときも、中谷さんと思しき人に連れられた日本人の女の子達がいた。僕のガイドはドラマ「ER」のルーシー・ナイトを演じたケリー・マーティン似のポーランド女性。細かな年代や人数まで記憶した、ガイドの鑑のような人だった。

さて、連日の歩き疲れからか膝が痛み始めて来たのだが、折角でもあるので、アウシュビッツの後に、同じくクラコフ郊外にあるヴィエリチカ岩塩採掘場に向かうことにする。アウシュビッツと共に世界遺産として登録されており、地下130m以上の深さまで観光コースで見て回ることが出来る。膝が痛いので階段を降りて行くのも一苦労だったが、内部は苦労に見合う壮観だった。

伝説ではハンガリーから輿入れした王女キンガは、ポーランドへの旅の途中、井戸掘りを命じたところ、かわりに岩塩が見つかり、さらにその中から結婚指輪が出てきたという…このシーンは岩塩坑内でも彫刻で表現されており、ナレーション付きで楽しむことが出来る。このキンガ像だけでなく、坑道内には岩塩から掘り出された多くの彫像が存在している。

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さらにはシャンデリアや、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を模したレリーフ、さらには、聖キンガ大聖堂という現在もミサが行われるという大広間まで、塩、塩、塩のオンパレード。

saltmine2.jpg.JPG

このヴィエリチカをはじめとする岩塩坑から上がる収益は、国家予算の3分の1にも上っていたと言う。
posted by としゆき at 19:37| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ポーランド紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月18日

クラコフへ

波乱の波蘭』、

ワルシャワ市内観光』、

ピアノの詩人』、

雪のワルシャワ』の続き。

さて、いよいよ鉄路クラコフへ。相変わらずポーランド語が出来ないと非常に不便なワルシャワ中央駅。4番ホームの電光掲示板には、発車予定時刻5分前にやっとクラコフ行きの表示が出る。最初、乗る車両を間違えて、地元の中学生だか高校生の集団に怪訝そうな目で囲まれてしまった。一人英語が出来る生徒がおずおずと前に出てきて、僕の座る席は自分たちが予約していると言う。道中やや不安だから、コンパートメント仕様の一等車にしたはずだったなのに、道理で座席が狭いわけだ…と、スーツケースを引きずりながら車両を移動する。ワルシャワからクラコフまで2時間45分、この電車には食堂車もあり、地元料理のジューレックとカツレツを頂く。ジューレックはやや酸味が効いているが、日本のお味噌汁に似た風味でとても美味しい。現地のスーパーではクノール等のインスタントも売っており、いくつかお土産に購入もした。

予定より10分遅れ、18時5分にクラコフ本駅へ到着。ホームへ降りると、外は猛吹雪であった。雪が降ったのが電車での移動日である意味幸運だったのかもしれないが、真っ白なホームでさてどうしたものかと途方に暮れる。とりあえずクラコフ名物(?)プレッツェルを夜食用に購入して、タクシー乗り場へ。途中、ワルシャワにも残存していたバルバカンを横目に見ながらホテルへと向かう。ホテルのフロントで聞くと、明日の天気予報は雪、その次も雪、その次は…お客さん、ラッキーですね、雪じゃなくて雨ですよ…。

さて明日以降どうしようかと迷っていたが、現地旅行会社のツアーは事前予約が要らず、当日朝ロビーで待っていれば良い事を発見。明朝起きてみて雪がひどいようなら、移動の楽なツアーに参加し、一人でも何とかなりそうなら電車でいろいろ廻ってみることにしよう。
posted by としゆき at 22:41| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポーランド紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月09日

雪のワルシャワ

波乱の波蘭』、

ワルシャワ市内観光』、

ピアノの詩人』の続き。

ワジェンキ公園後、ワルシャワ蜂起博物館へ。第二次世界大戦末期、ソ連軍がワルシャワまで目と鼻の先の地点に侵攻し、ナチス・ドイツ第三帝国の敗色が濃厚になっていく。そんな中、1944年8月1日、ワルシャワ市内でレジスタンスがいっせいに蜂起する。ところが、頼みとするソ連軍はワルシャワ市内を流れるヴィスワ川東岸まで達して歩みを止め、それを見たドイツ軍は徹底した弾圧をレジスタンスに加えていく。約2ヶ月の激戦で、20万人もの犠牲者をだし、ワルシャワ市街は灰燼と化す。現在見られるワルシャワの建造物の多くが、戦後に復興されたものであるのも、このワルシャワ蜂起とそれに伴う破壊によるものだ。

ポーランドは3度の分割で毎回ドイツとロシア相手に苦渋をなめている。そもそも、第二次世界大戦はドイツによるポーランド侵攻で始まるが、ほぼ同時にソ連もポーランドに侵攻、東半分を占領している。ワルシャワ蜂起の最中、アメリカやイギリスによる空輸支援にも反対し、反独でありつつも、同時に反ソであったこのレジスタンスをいわば見殺しにしている。カチンの森事件もあり、ポーランド人の間には今も旧ソ連・ロシアへの複雑な感情が宿る。この博物館では、当時の街の様子を多くの資料と豊富な映像で展示している。入館料も無料であり、人々の苦しみを次世代に語り継ごうと言うことなのだろう。

翌朝、ヴィラヌフ宮殿へ。17世紀末のヤン3世ソビエスキが建てた夏の離宮だ。ソビエスキは、第2次ウィーン包囲でトルコ軍を破り、ヨーロッパのイスラム化を防いだことでも知られるらしい。王宮同様、豪華な装飾品や内装が美しい。特にフレスコ画で描かれた壁がきれいで、毎日こんな環境で暮らしていたのかと思うと羨ましくなってくる。

宮殿横にある旧キッチン脇を歩いていると、掃除中の職員が気さくに話しかけてくる。本当はまだ入れないんだけれど…と言いながら、中を案内してくれる。ちょうど10月に日本大使館の協力で活花展を行ったらしく、このときも着物の型紙の展示が行われていた。行った事はないけれど日本好きらしく、11月は観光には"worst"なのにねぇ…とありがたいお言葉まで頂戴する。庭内にあるポスター美術館でもちょうど日本のポスター展をやってるからどうぞ…ということだったのだが、残念ながら時間が早過ぎてまだ開館しておらず。

ちょうどこの頃、雪が降り出した。ポーランドは確かに日本に比べれば寒いけれど、これくらいなら大したことないし、観光地も空いていて却って好都合かも…等と思っていた僕が間違っていた。ヴィラヌフ宮殿からワジェンキ公園、中央駅と進んでいくうちに、猛吹雪になっていた。中央駅近くにはスターリンが建設した文化科学宮殿が建っている。ワルシャワ市内を見下ろすその高さが市民には不評らしい。30階には展望台があると言うことで行ってみることに。クローク(この国はどんな施設にもクロークがあって、上着や鞄を預けさせられる)にバッグを預けるが、上着を脱ごうとするとそれはいいから、と言う。怪訝に思って30階に登ってみて納得。吹きさらしだったのだ。降り止まぬ雪に凍えながら、展望台を一周するだけでも体が冷え込んでくる。今日でワルシャワも最後だと言うことで、市内を一望した後、一旦ホテルに戻って出発の準備をする。本来は正午チェックアウトなのだが、電車が14時50分発なので、チェックアウトを14時まで延ばしてもらい、部屋でシャワーを浴びて暖を取ることが出来た。後から思えばこれは大正解。外は相変わらず雪。クラコフはどんな天気なのだろうか。
posted by としゆき at 12:43| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポーランド紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

ピアノの詩人

波乱の波蘭』、

ワルシャワ市内観光』の続き。

ポーランドが産んだ歴史上の有名人といえば、『ワルシャワ市内観光』でも触れたマリー・キュリー、コペルニクス、カトリックのこの国で絶大な人気を誇るヨハネ・パウロ2世等に加え、何よりもフレデリック・ショパンだろう。市内にも、ショパン関連の名所は多い。まずはショパン博物館。筆不精だったと言われるショパンが両親や、恋人だったジョルジュ・サンドに宛てた直筆の手紙も残されている。こじんまりとした建物は3階建で、最上階はショパン国際ピアノコンクールの際には会場としても用いられると言う。また、王宮広場からワジェンキ宮殿に至る「王の道」沿いには、聖十字架教会がそびえている。晩年をパリで過ごし、彼の地で亡くなったショパンだが、その心臓だけは故郷ポーランドに戻されることを望んだ。その彼の心臓が埋葬されているのがこの教会だ。

そんなショパンの雰囲気漂うワルシャワでは、ワジェンキ宮殿で行われるショパンのピアノ・リサイタルにも行ってみた。観光のオフシーズンと言うこともあって、当日の聴衆はわずか4人、僕以外はグループでの参加であったから、要は2組だけだ。もっとも、用意されていた椅子も全部で20脚くらいだったから、ハイシーズンでもそれくらいが目安なのかもしれない。演奏の方は、よく知られた「子犬のワルツ」など、素人受けしそうな曲が選んであった。それでも、王の夏の離宮として使われたワジェンキ宮殿の美しいフレスコ画に囲まれ、目の前(ほんの1メートル程先)でのピアノ演奏を聴くチャンスなんてめったにないから、なかなか良い体験だった。演奏自体は素晴らしいものだったので、同じ演奏者によるショパンのCDを購入してサインをしてもらう。リサイタルの帰りに送ってもらう途中、ガイドさんが「明日はどこに行くんだ?」と聞いてきた。本当はショパンの生家に行こうと思っていたのだが、そうすると「じゃあうちのツアーでどうだ?」とか勧誘されそうだったので、「(ワルシャワ南部の郊外にある)ヴィラヌフ宮殿に行こうと思う」と思う、とちょっとウソをついてしまう。そうするとこのガイドさん、「泊まってるホテルは中央駅前だよね。だったら、聖十字架教会なんかもある新世界通りまで行って、180番のバスに乗れば良いよ」等と非常に親切にアドバイスをしてくれる。疑ってしまって申し訳ないことをしたと、少し反省…。

翌日は、ワルシャワ郊外にあるジェラゾヴァ・ヴォラへと向かう。ショパンの生家のある街だ。ワルシャワからクラコフへは、電車での移動を計画していたので、練習も兼ねて鉄道で行ってみることにする(そのためにリサイタルのガイドさんにつれなくしてしまった…)。ホテルのコンシェルジュと相談してたところ、9時発の電車があるよ、というので急いで行ってみたが、実はそれは間違いで、別の駅から出る便だった。仕方ないので10時25分発のチケットを取る。ワルシャワ中央駅のインフォメーションは英語も通じるし、なかなか親切な窓口で助かった。ここで、ついでに翌日のクラコフ行きIC(=Inter City、特急)のチケットも購入。1時間以上ホームで待つのも寒いので、歩いて5分のホテルに戻ると、この15分程の間に既に部屋のベッドメーキングまで終わっててびっくり。ちゃんとクリーニングしてるのか!?

まずはワルシャワからソハチェフ駅へ。特急でノンストップだ。ヨーロッパで電車に乗るのは初めてだったので緊張したが、コンパートメントに区切られた座席はなかなかに快適。40分しか乗れないのが逆に残念なくらい。ソハチェフからはローカル・バスで、ショパンの生家最寄のバス停まで20分くらい。ショパンの生家は小さいが、ショパンが幼少時に作曲した楽譜等が飾られている。

ChopinPiano.jpg.JPG

帰りもバスと電車を乗り継いでワルシャワへ。ただ、ワルシャワ中央駅ではなくて、隣の西駅が終点のようで、乗客がホームに降り始める。中央駅行きを待っているのかと思いきや、どうも違うらしい。英語の話せる人を求めて彷徨っていると、中央駅行きは別のホームから出発すると言う。走ってみたものの時既に遅し、ギリギリで乗り過ごしてしまう。次の便まで、さらに30分待たされるはめに。結局、ホテルを9時少し前に出て、戻ってきたのは15時前。途中、電車やバスの待ち時間で1時間半くらい無駄にしてる計算だ。電車やバスは便利なのだが、土地勘がないせいもあって、乗り継ぎの時間などを無駄にしてしまうことに改めて気がついた。そういう意味では、観光地を効率よく回るには、必ずしも自分の足で行かなくても、ツアーを使うのも良いかもと思い始める。

その後、昨日リサイタルを聞きに来たワジェンキ公園へと向かう。その時は夜に車で送られてきたの見られなかったのだが、この公園には大きなショパンの像があるのだ。ワルシャワでのショパン尽くしの最後に、その像を眺めながらしばし余韻に浸る。ワルシャワの午後は4時も過ぎると薄暗くなり始め、身を切るような冷たい風も吹き始める。だんだん体も冷えてきたので、公園を後にすることにした。
posted by としゆき at 22:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポーランド紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月03日

ワルシャワ市内観光

波乱の波蘭』の続き。

移動疲れだし寝不足のはずなのだが、時差ボケのせいか何故か翌朝は早起きしてしまう。外は雨が降っているが、泣きたいのは荷物がないこっちだ…と思いながら、じたばたしても仕方がないのでとりあえず観光に出かける。ワルシャワは他の中東欧の街と同様、バスとトラムが市民の足だ。さらに地下鉄まで走っており、めぼしい観光地にはお手軽に移動できる。まずは地下鉄で街の北方にあるツィタデラ大監獄要塞跡へ。

中世以降のポーランドの歴史は他国・他民族による蹂躙の歴史だ。ナポレオン没後のウィーン会議で、ロシア皇帝が王位を兼ねるポーランド立憲王国が成立する。ロシアの圧制に対して1830年11月、ポーランド人は「11月蜂起」を起こすも、ロシアによって鎮圧される。時のロシア皇帝・ニコライ1世は更なる反乱に備えてツィタデラ要塞を完成させた。その後、政治犯や革命運動家が拘留され、監獄としても用いられていく。

監獄は博物館として保存されており、内部を見学できる。ポーランドでは人が近づくと明かりが灯る仕掛けや、日本でもよくある、通行人が来たときだけ動き出すエスカレーターが多い。それはそれでいいのだが、陰鬱な監獄内部で、長い廊下の先が薄暗かったりすると、歩いていても怖くなってくる。暗い部屋に入って数秒後にパッと明かりがついたとき、当時の軍服をきたマネキンが目の前に立っていたりすると思わずぞっとする。あれは絶対わざとそういう展示にしてるに違いない。

ツィタデラを後にして南下し、新市街へ。この辺りは現在は住宅街のようだ。静かな町並みを歩いていくと、ポーランドが産んだ偉人の一人、キュリー夫人博物館がある。ここが彼女の生家だ。ポーランドには美術館や博物館が多いが、展示は1フロア、部屋数にして3、4部屋という小規模なものも多い。そのくせ入館料は7ズロチとか10ズロチとか取られて行って、小銭がどんどんなくなっていく(1ズロチは約45円)。

余談だが、「ズロチ」は本当は「ズウォティ」と言う方が正しい発音に近い。ポーランドはカトリックと言うこともあってスラブ語系なのだがラテン文字を用いる。ローマ字表記できない音に対してはオリジナルの文字が考案されたが、"L(l)"にバックスラッシュを入れたような文字"Ł(ł)"があり、英語の観光ガイド"in your pocket"によると、英語の"win"の"w"の様に発音される。ズロチも"Złoty"だから、「ズウォティ」なのだ。「ズロチ」という発音は、"ł"を"l"と勘違いしたためだと思われる。1980年代の「連帯」運動で知られ、後に大統領になったワレサも、"Wałęsa"だから本当は「ヴァウェンサ」だ("ę"はフランス語の"bien"の"en"と同じ発音、らしい)。

さて、さらに南下を続けるとバルバカンと言う円形の砦が見えてくる。現在ではヨーロッパの3箇所にしか現存しないらしい(クラクフにもある。後一つはどこにあるのか調べたけれど分からなかった)。そこを超えて行くと、旧市街市場広場に到達する。広場に面して旧王宮もそびえている。王宮内部はさすがに荘厳で、華麗な展示物に圧倒される。ただ、残念ながら僕が行った日には英語ツアーが催行されておらず、ざっと眺めて歩くしかなかった。複雑なポーランド史も絡めて説明されれば、より良く理解できたのに。途中道に迷ったのだが、各部屋にいる係員には英語がなかなか通じず、入り口の受付まで戻らされた。ところがポーランド人自体は気さくで親切な人が多くて、わざわざ2階まで案内してくれたりする。言葉と言えば、観光地のレストラン等では英語が通じるし、若い人にはドイツ語やフランス語を学習する人が多いらしい。また、高齢者は「忘れてしまった」と口を揃えるものの、実際にはロシア語を理解すると言う。この国のロシアに対する複雑な感情についてはまた改めて書いてみたい。

この王宮から市内南部ワジェンキ宮殿(これまた"Park Łazienkowski")まで伸びる「王の道」を歩いていく。プラハやブダペストと同様に古くからの街並みを保ちつつ、ロンドンやパリほど現代化されていない、美しい通りが続く。もっとも、ワルシャワは第2次世界大戦時に壊滅的に破壊されており、現在の街並みは、戦後に市民が写真や風景画まで動員して「壁のひび一本まで忠実に」復元されたものだそうだ。

その後、大統領官邸(もちろん内部には入れず)、国立オペラ劇場(工事中で入れず)、ワルシャワ大学(時間がなくて入らず)と眺めつつ、軍事博物館へ。まず庭にずらりと戦車やジェット機が並んでいるのに驚く。内部にはポーランド軍・兵器の歴史が展示されている。18世紀にポーランド分割を経験しているためか、ポーランド国軍としての展示は中世の物が多い。兵士や馬が全身をプレートメールに覆われていたり、ロールプレイングゲームの世界でも見ているかのような雰囲気を醸し出していてなかなか楽しい。ちなみにこの博物館は写真撮影は禁止だが携帯電話の使用はOKで(入り口で、カメラに×印の表示と共に、携帯に○印を付けた表示がわざわざ掲げてあった)、見学中にちょうどホテルから入電。無事にスーツケースが届いたらしい。とりあえずは安心、安心。
posted by としゆき at 21:18| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポーランド紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月02日

波乱の波蘭

一週間のお休みをもらって、ポーランドへ旅行してきた。何故この極寒の時期に…と皆に言われたが、ポーランドには以前から行ってみたかったのと、お休みがこの時期になってしまったので、選択の余地はなかったのだ。が、ポーランドの寒さについては後ほど現地で散々に思い知らされる事になる。

勤労感謝の日だった23日に出発。連休と言うこともあり、予約してなかった成田エクスプレスは満席で品川から一時間立ちっぱなし。今回はアリタリア航空でミラノ乗換え(日本〜ポーランド直行便はない)なのだが、アリタリア航空のカウンターは長蛇の行列で劇混み。ツアーの団体客も多く、遅々として列が進まない。イタリア人はラテン系だから仕事が遅いなぁ、等と思いたくもなったが、考えてみれば事務作業をしてるのはほとんどが日本人。しかもやっとの思いでチェックインを済ませると、出国審査等は意外にスムーズ。結局、アリタリア航空自体が駄目だったのだろう。

出発まではヴァージン・アトランティック航空のラウンジで過ごす。噂のヴァージン自体には未搭乗なのだが、このラウンジでは外部への電話は架け放題だし、飲み物もセルフじゃなくてサーブされる形式だし、とやや贅沢な気分。ただ、こちとら小市民なので、逆に飲み物は冷蔵庫から自由に缶で取り出せる方が気が楽だったりもする。行きのアリタリア機内では、食事が済んだ後の飲み物はセルフサービス。やっぱりこっちの方が、いちいち搭乗員を呼び出さなくて良いからお手軽だ。その搭乗員は、お客そっちのけで仲間内で大声で喋りまくってるし、またまたイタリア人…と思ったら、もちろん日本人搭乗員もいた。随分と態度も恰幅も大きな人ではあったが。

そんなこんなでミラノ・マルペンサ空港で乗り継ぎ。ワルシャワまでの接続便を、アリタリア航空のラウンジで待つ。ちなみにここでも飲み物はカウンターで注文して受け取る方式だった。乗り換え前にも再度荷物チェックがあり、飲み物のペットボトル等はここで没収される。ただ、来る時に機内でもらったアリタリア航空印の入ったペットボトルはOKだったので、いい加減といえばいい加減かも。

約2時間後、現地時間23時過ぎにワルシャワ・オケンチェ空港に到着。ところが、待てど暮らせどターンテーブルから僕の荷物が出てこない。何人かがまだ荷物を待っているので、単に遅れているだけかと思うものの、表示板には"Last Bag"の表示が灯り、さらにターンテーブルに荷物を吐き出す出口にはシャッターが降り始める…何と人生初のロスト・バゲッジだった!空港だからさすがに英語は通じるものの、地上職員もそれほど流暢ではない様子で、話していてもなかなか埒が明かない。システムで調べてもらっても、一体全体どこに荷物があるのか分からない。ワルシャワに届いてるのにどこかに紛れてしまったのか、ミラノで積み込み損ねたのか、はたまた成田で紛失してしまったのか。皆目見当が付かない。結局、早くても翌日の昼過ぎ(次のミラノ〜ワルシャワ便の時間)にならないと荷物は届かないということで、ホテルの連絡先を伝える。これだからイタリア人…いやいや、アリタリア航空め。

機内持ち込み荷物に入っていたのは、一日分のコンタクトレンズ、歯磨きセットと現金くらい。寝巻きもなくて、仕方なくバスローブを着て眠ることにする。テレビをつけて地元の放送を見ていたら、海外の映画やドラマの吹き替えは、なんと一人の人間が行っていた。まるで活動弁士のように。男も女もなく同じ声なので、ポーランド語も理解できないし、なんだか良く分からないうちに寝入っていた。
posted by としゆき at 19:17| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポーランド紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする