2012年11月05日

ファーストマン

10月は結婚式やら新婚旅行やらでバタバタしていて、ブログも書きたいことがたくさんあったのに全く書けなかった。新婚旅行どころか、7月に行ったハワイの話も書こうと思っていたらもう11月。今年は本当に忙しい…。

その辺はおいおい書くとして、今回の旅行中に『アームストロング』でも触れた「ファーストマン」を読了。上下巻合わせて1000ページを超える大著だが、のんびりした旅行だったので、プールサイドでゴロゴロしながら読み通すことが出来た。

アポロ11号で、人類初の月面着陸を果たしたニール・アームストロング初の公式伝記であり、スコットランド由来のアームストロング家の先祖に始まり、ニールの子供時代、学生時代、海軍時代、そして宇宙飛行士時代とその後を描く。膨大な人物に取材を行ったようで、様々な人物のコメントが引用されているが、そのいちいちに注釈が付いている(その人物から著者への電子メールによる、といった注釈が今風か)。

面白かったのはアポロ11号の3人の飛行士のうち、誰が最初に月面に足を踏み出すのか(ファーストマンになるのか)の議論。指令船に残るマイク・コリンズはさておき、船長たるアームストロングと着陸船操縦士のこのバズ・オルドリンのどちらがファーストマンたるべきか?二人乗りのジェミニ計画では、船外活動を行ったのはもっぱら船長ではなく、もう一人の側だった。野心家でもあるオルドリンは、自分こそファーストマンであるべきだとし、実際に父親を通じてNASA上層部へ政治工作を行ったりもした。彼のこうした姿勢や日常の態度から、上層部はオルドリンを毛嫌いし、絶対にアームストロングをファーストマンにするという決定を下した(余談だが、NASA上層部は、アポロ1号の事故でなくなっていなければ、ファーストマンはマーキュリー計画の宇宙飛行士、オリジナル・セブンの一人であるガス・グリソムだったろうと考えていたと言う。)。

伝記はもちろん、アームストロングの立場にたったものであり、彼が冷静沈着な人物として描かれる一方、オルドリンが悪者になっている嫌いはあるが、実際にファーストマンとなるか、セカンドマンとなるかという極限状態になって、必死になったオルドリンの立場も分からないではない。オルドリンやコリンズも自伝があるらしいので、時間が出来たら読んでみるか。

もっとも、先に読んでみたいのは、アポロ13号船長だったジム・ラヴェルの自伝、"Lost Moon"、日本語版はその名も「アポロ13」(映画の原作でもある)。彼をオルドリンにかえてアポロ11号乗組員にしてはという提案もアームストロングにあったようだし、大成功だったアポロ11号との対比で、"successful failure"と呼ばれたミッションだけでなく、ラヴェルその人にも興味がある。日本語版は品切れ状態だが、文庫再販してくれないかな。

「ファーストマン」中で面白かった箇所としては、工学部出身だったアームストロングを念頭に、 「アポロの月面着陸プログラムに関して最も重要なポイントが二つある---殆ど認知されないポイントでもあるが。月面着陸をを成し遂げたのは科学(サイエンス)よりも工学(エンジニアリング)であったこと。そして、科学者ではなくエンジニアが、地球外の別世界に最初の足跡を記したことである」。アームストロング自身、パデュー大学で航空工学を専攻しており、宇宙飛行士引退後、大学で教えた事もある。科学と技術の幸せな結びつきが、アポロ月面着陸と言う偉業を達成し、その実行役としてアームストロングのような人材が時代に選ばれたと言う事かも知れない。
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2012年01月23日

小説フランス革命

佐藤賢一の「小説フランス革命」が文庫になったので読み始めた。文庫版は単行本の2冊分を3分冊する形で、現在は第5巻「議会の迷走」まで出版されている。著者の佐藤賢一の名前は以前から知っていて、親書はいろいろ読んでいた。以前、「ヴュルツブルク」でも名前だけ出したが、東北大大学院で「フランス文学専攻博士課程単位取得満期退学」という事らしい(学部は山形大学)。フランス語やフランスの歴史には(当然?)詳しいんだろうな、という事が感じられるし、親書での分かりやすく丁寧な説明、ときおり混ざる蘊蓄も嫌いじゃない。

彼の小説はこの作品が初めてなのだが、読み始めるとなかなか止まらない。毎日電車通勤では日経新聞を読んで行くのが日課だったのだが、最近は新聞そっちのけで文庫を読みふけっている。 何より独特のリズム感溢れる文体がいい。流れるように物語が展開し、各章が短い(大体8〜10ページで章立てが変わる)事もあって、「ここでやめておこう」と言う風にはなかなかならず、「もうちょっとだけ」と読み進んでしまう。

文庫版第3巻の解説で、同じくフランス文学者の篠沢秀夫が述べているように、「どの人物の心の中も描き出」している「<客観的三人称小説>」、であり、そして「その箇所でスポットを当てられている人物の心の動きが、地の文章の形で語りだされる<自由間接話法>」のなせる妙か。

また、同じ著者の新書『英仏百年戦争』でもそうだったが、作者オリジナルの年表が巻末に載っており、これがまた分かりやすい。この手の本の年表は情報過多だったり、編集者か誰かによる形ばかりの年表であることが多いが、時系列を追う事で小説を頭の中で反芻できるような、年表を「読み進められる」ような作りになっている。

さらにこの小説を読むときには、同じ著者による『フランス革命の肖像』があるとなお楽しい。ネッケル、ミラボー、デムーラン…と小説に登場する人物達の容姿を眺めてみると、ヴィジュアルのイメージもあいまって物語中の彼らが生き生きと動き出すような気もしてくる。

小説は単行本第6巻(文庫だと9巻)で「第一部」完ということらしい。年表によると1791年末までを描き、いわゆるフランス革命戦争前夜までを描く。文庫版もまだ第5巻までしか刊行されていないが、続きが待ち遠しい。
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2011年01月17日

横山光輝

年末年始に実家に帰ったときに、本棚にあった『横山光輝 三国志事典』と『横山光輝 三国志おもしろゼミナール 』を見つけた(現在はどちらも絶版の模様)。横山光輝の三国志自体は、文庫版全30巻を持っているので、懐かしく眺めることが出来た。

ちょうど今月からBSフジで『三国志 Three Kingdoms』が始まったところだ(毎週月曜日午後6時〜)。第1回は曹操による董卓暗殺失敗が描かれており、本日の第2回は董卓の追求の手から逃れようとする曹操と、何故か突然「桃園の誓い」が放映された。全18話だということなので、どうも第一部の「群雄割拠」が放映されるらしい。前篇DVD-BOXとして、この「群雄割拠」、第2部「中原逐鹿」、第3部「赤壁大戦」がセットになったものが売られている。後篇は今年陽春発売予定だとか。第一部の出来が良かったら買ってみようかな。

三国志 Three Kingdoms 前篇 DVD-BOX

ちなみに中国古代物のテレビドラマと言えば、WoWoWでも『中国歴史大河ドラマ「孫子《兵法》大伝」 』(全35話)が始まった。いわずと知れた中国の春秋時代、呉の名軍師である孫武を主人公にした作品だ。孫子の兵法は海外でも人気が高く、マーケッ関係者の中でもバイブルとして読んでいる人がいるとか、いないとか。「知彼知己者、百戦不殆」(いわゆる、「敵を知り己を知れば、百戦して危うからず」)が、相場にも通じるということかもしれない。

横山光輝の描く中国物は『三国志』が質・量・人気共にずば抜けているのだろうが、他にも面白い作品を書いていて、この孫武の話も、彼の『史記』に出てくる(というか、孫武の話が出てくる司馬遷の『史記』を、彼が漫画化したのだけど)。ちょうど『史記』文庫版の第1巻〜第2巻辺りがWoWoWドラマの時代なので、読み返してみたところ、面白くてついつい11巻全部読んでしまった。春秋戦国時代を経て、秦による中国統一、項羽と劉邦の戦い、そして司馬遷が宮刑を受け、『史記』を執筆するきっかけとなった匈奴との戦い等と続く。

横山光輝には、そのものずばりの『項羽と劉邦』と言う作品もあり、こちらは『三国志』後すぐに連載された作品らしい。当然『史記』とも話がかぶるのだが、前者では劉邦の漢による中国統一で話が終わっている。「項羽あっての劉邦ですし、皇帝になってからの劉邦は、猜疑心のとりこになって、功労者まで疑うようになって」しまうので、「漢楚の合戦物語として完結させ」たと言う。僕は『史記』より先に『項羽と劉邦』を読んだので、その時は「その後」が気になったのだが、『史記』を読んで解決した(他の歴史小説でも読めば、すぐ分かったのだろうが…)。

『項羽と劉邦』で、劉邦が韓信に出陣を命じたとき、渋る韓信に対して劉邦は斉王の地位を約束する。と言うわけで、一時期、漢(劉邦)・楚(項羽)・斉(韓信)の天下三分がなりかけた時期もあったりして(実際、説客の蒯通(かいとう)からそれをすすめられたりもする)、当時の王、あるいは国と言う関係が良く分からなくなっていた。そもそも春秋戦国時代だって、周王朝というれっきとした「天子さま」がいたわけで。『史記』を読むと、その辺りが整理されていて多少なりとも分かりやすかった。まあ、日本でも足利将軍家がありながら、日本全国文字通り戦国時代だったりしたようなものなのだろう。

さらに横山光輝には『殷周伝説』と言う作品もあり、太公望を軍師とした周による殷打倒を描く。妖術やら仙人やらが次々と出てくるので、『三国志』、『項羽と劉邦』が好きな向きからすると、ちょっと違和感を覚えるかも知れない。時代的には『殷周伝説』→『史記』・『項羽と劉邦』→『三国志』と続く。僕好みの面白さで言えばこの逆順かな。
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2009年12月31日

暗号解読

少し前に、GoogleがMITの学生を採用するために出題した暗号という問題が送られてきた。ネット上でも割と話題になっていたらしい。Googleといえば以前、"{first 10-digit prime found in consecutive digits of e}.com"とだけ書かれた看板を出し、こんな問題に興味を持ってアクセスしてくる学生を採用していた…と言う有名な話もある(ちなみに答えは"7427466391.com"だが、今はアクセスできないみたい)。

今回送られてきた問題は

GoogleCode.jpg

さあ、どう読むのか?

僕自身は自分でトライしてないので何とも言えないが、この暗号は割と簡単なシーザー暗号(+α)だと言う。暗号と言えば小学生の頃などに、妙に「た」と言う文字が多く含まれた文章の横に、動物の狸の絵が書かれているようなモノしか見たことがない。だから「シーザー暗号」と言われても、すぐにはピンと来ないのだった。と言うわけで、サイモン・シンによる『暗号解読』を読んでみることにした。この本は暗号の簡単な歴史から始まって、最先端の量子暗号まで語っている。

初期の暗号は、簡単なシーザー暗号(元の文=平文のABC…をある一定の文字だけシフトさせる)や、換字式暗号(平文の特定の文字同士を入れ替える)であった。ところが、頻度分析(文章中に文字が現れる度合いの分析)により、たとえば英語だったら"e"が最頻のはずだから…等と解析されてしまう。シャーローック・ホームズの「踊る人形」でもこの解析は用いられていた。

続いて登場するのがビジュネル暗号。あるキーワード(鍵)を用意し、その鍵にしたがって何文字ずらしたシーザー暗号を適用するか、と言う2重構造にする。たとえば鍵が"KEY"だとすると、ABC…→KLM…の置換、ABC…→EFG…の置換、ABC…→YZA…の置換、が順に用いられる。4文字目からはまたABC…→KLM…の置換…と循環する。これだと、平文で同じ文字だったとしても、鍵によって違う文字へとシフトされるため、単純な頻度分析が使えない。ところが、この一見複雑なビジュネル暗号も、鍵の文字数毎に「周期的に同じシーザー暗号が適用されるという」事実を用いて、解読することが可能なのだ。

本書はこうした暗号の歴史が綴られるが、暗号に絡む様々なエピソードが面白い。ロゼッタストーンによるヒエログリフの解読に、光学で知られるトマス・ヤングが一枚噛んでいたのは知らなかった。他にも第2次世界大戦中にドイツ軍に用いられたエニグマ暗号や、メソポタミアの線文字Bの解読等が続く。

さて、ビジュネル暗号にしてもエニグマ暗号にしても、暗号のポイントはいかに安全に鍵を更新相手に届けるか?というところにある。そこを逆手に取ったのがディフィー、ヘルマン、マークルによる公開鍵暗号方式という概念だ。そして、その概念を実現する方法が素数を用いる手段だった。巨大な数の素因数分解が非常に難しい事を利用して、大きな2つの素数pとqの積であるN=p×qを公開し、それを暗号鍵として暗号化したメッセージを送ってもらう。受け取った場合は、pとqを用いて複号するのだが、仮にNが分かったとしても、それをpとqに素因数分解する事は容易ではない。インターネットでも良く用いられているRSA(=リヴェスト、シャミア、アドルマン )と言う暗号方式はこの考え方に基づいている。

ところで、この公開鍵暗号方式は、実はずっと以前にも発見されていた。英国政府通信本部のエリス、コックス、ウィリアムソン達は、ディフィー、ヘルマン、マークルよりも先に素数を用いたRSA方式を考え付きながら、機密扱いの諜報機関に所属する身分のため、それを発表することが出来なかった。ちなみにウィリアムソンとコックスはイギリス代表として、ソ連での数学オリンピックに参加している数学の天才だ。

さて、素数を用いた暗号は、計算時間が膨大なため「事実上」解読不堪能なのであった。ところが、量子コンピュータを用いれば、素因数分解が超高速で行える可能性がある。それに対して、同じく量子力学を利用した量子暗号も研究されている。現在でも最先端のこうした研究テーマだが、暗号業界でよく冗談にされているのが、「NSA(アメリカ国家安全保障局)が既に開発してしまっているのかもしれない」と言うものだ。先ほどのウィリアムソンやコックスではないが、NSAは最も多くの数学者を雇い入れている機関だという。歴史的にも、チャールズ・バベッジはヴィジュネル暗号を解読しながら、クリミア戦争中のイギリスの機密とされ公表されることはなかった。そしてヴィジュネル暗号解読はカシンスキーに帰されることとなってしまう。エニグマ暗号解読に貢献したチューリング(チューリング・マシンで有名)も、その成果が公表されることはなかった。

暗号とそれにまつわるエピソードは、必然的に国家間の諜報最前線と絡むため、謎めいた魅力と、最先端理論の持つ興奮とがないまぜとなった面白さがある。このサイモン・シンによる「暗号解読」は、翻訳者である青木薫の力も大きいのだろうが、大変読みやすく、一気に終わりまで読み通してしまえる。「ロゼッタ・ストーンから量子暗号まで」(単行本の副題)に興味のある方は是非どうぞ。
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2009年12月15日

愚者の黄金

ジリアン・テット著「愚者の黄金」が面白い。J.P.モルガンは、後にクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)と呼ばれる新たなデリバティブを開発しながらも、その後のCDO(=Collateralized Debt Obligation)ビジネス全盛期に、スーパーシニアと呼ばれる残骸部分の処理方法をどうしても見出せず、各投資銀行の過当競争とは一線を画す。時あたかもグラス・スティーガル法による銀行・証券ビジネスの垣根撤廃と重なり、レバレッジをめいっぱい掛けた他社は記録的高収益を上げていく。自分達の知らない奇策を他者が思いついたのか…伝統的にリスク管理を重視するカルチャーであったJ.P.モルガンにとっては、他社が単にリスクを無視して掛け金を積み上げているだけだったとは、想像も出来ない事だった。

元々、伝統的商業銀行であるJ.P.モルガンは、信用リスクの管理に敏感だった。ローン貸し出しのみならず、スワップ等のデリバティブ取引でも信用リスクが積みあがり、銀行のバランスシートからリスクを取り外す方法の発見が急務だった。そこで開発されたのがCDS。エクソンへの融資に伴うリスクを、手数料を払う事で欧州復興開発銀行へと売りさばき、銀行としての貸し出しを維持したままでも信用リスクに伴う自己資本の積み増しを回避する事が出来るようになったのだ。

さらにCDSはシンセティックCDOを作るうえでのパーツとなる。CDOは複数の債務(Debt)を担保(Collateral)として組成される商品であり、通常シニア、メザニン、エクイティ等の複数階層を持つ。エクイティは原資産債務がデフォルトした場合などは真っ先に被害を受けるが、その代わりに利回りが高い。メザニン(中2階を意味する)はそれに次ぐリスク(そして低い利回り)、シニアはさらにリスクは低く利回りも低い。

分散された担保資産を用意しておけば、全てがいっせいにデフォルトする確率は低いわけだから、全体としては、特にシニア部分は極めて安全な投資となる…はずであった。初期のCDOは伝統的な企業債務を原資産としており、商業銀行として長年の貸し出し実績があり、また好況・不況時の倒産確率等、膨大な歴史的データを持つJ.P.モルガンは、こうした信用リスク間の相関やプライシングには自身を持っていた。

ところがその後、住宅ローンを裏付けとするCDOが開発されていく。一貫して右肩上がりの成長を続け、後から見ればバブルとしか思えない状況にあった住宅市場。J.P.モルガンはこうした住宅ローンのCDOから発生するスーパーシニアのリスクを、一体どうやればヘッジ出来るのかがどうしても分からなかった。また、各社の過当競争の中、利回りはどんどん低下していき、かつてはスーパーシニアのリスクの買い手であったAIG等の保険会社も、もはや手を出さなくなっていた。住宅ローンはさらにサブプライムと呼ばれる低信用度の借り手向けローンが爆発的に広がり、そうしたローンを背景としてCDOが次々と量産されいてく。

管理できないリスクには手を出さない…とするJ.P.モルガン、そして住宅ローン市場の転換にいち早く気付き、市場下落に賭けるショート・ポジションを構築しつつあったゴールドマンやドイツ銀行を除き、シティ、リーマン、メリル、ベアー等、名立たる銀行が最後の最後までその泥沼にはまっていく。

本書に描かれるその後の歴史は既によく知られたサブプライム危機、そしてその後のクレジット危機だ。ベアー・スターンズ傘下のファンドが清算に追い込まれ、BNP傘下のファンドが市場混乱を理由に時価計算を停止、ベアーはJ.P.モルガンによる救済合併、リーマンは当局に見放され破綻、一転、AIGはFRBによって「救済」される。

結局J.P.モルガンがどうしても分からなかったスーパーシニア部分のリスクは、保険会社であるがゆえに当局の目が行き届かなかったAIGが取るか、あるいは各投資銀行がSIV(=Structured Investment Vehicle)として簿外に設立した特別会社に「隠蔽」されていたのだった。

本書の中で、何度もJ.P.モルガンのCDS開発チームが言うように、ツールそれ自体が悪いのではなく、問題はその使い方なのだ…という考え方に、僕自身は大いに同意するのだが、事ここに及んではそうした意見も力なく聞こえる。J.P.モルガンはチェース・マンハッタンと合併したが、ニューヨークの水道会社(マンハッタン社)の銀行部門を源流に持つこの合併会社は、水道管を象った八角形の会社ロゴを採用していた。ブランド見直しでそのロゴが放棄されてしまったことを著者は嘆く…

「ある意味で、金融業は水道業とさして変わらない…こうしたパイプの効率が悪く、水漏れし、コストがかかれば、誰もが不利益を被る…今こそ現代の銀行すべての玄関に、八角形の水道管のロゴを掲げるべきときかもしれない。マネーも水と同様に、私たちの壊れやすく密接に結びついた世界を、自由に、そして安全に流れる必要のある、きわめて重要な存在であることを心に刻むために」。

ところで以前、NHKで放映された「マネー資本主義」。第4回の『ウォール街の“モンスター”金融工学はなぜ暴走したのか』の中で、J.P.モルガンでCDS開発に携わり、その後に投資家向けのコンサルティング会社を設立したテリー・デュホンが登場した。CDS創始者の一人がテレビで話しているのを見て感激したが、彼女も「ルイジアナ州の田舎の貧しい家庭出身で数学の秀才、テリィ・デュホン」として本書に登場する。

彼女以上に「特に注目すべき新メンバー」として本書で取り上げられていたのがブライス・マスターズだ。「細面の金髪美人」と形容される彼女は、偶然にも本日会社に届いたブルームバーグ・マガジン1月号表紙に載っていた。現在、J.P.モルガンの商品部門世界責任者であり、環境ビジネスを統括する。二酸化炭素の排出権取引は賛否両論あるが、また使い方を誤って、CDSに続いて「金融大量破壊破壊兵器」(ウェーレン・バフェット)となってしまうのか。
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2009年02月01日

灰の遺産

ティム・ワイナーの「CIA秘録」を読んだ(原題は"LEGACY of ASHES: The History of the CIA")。CIAといえば第2次大戦中の戦略情報局(OSS)から発展し、アメリカ諜報活動を担うスパイの総元締め…という印象であるが、著者によれば失敗だらけ、問題だらけの組織であるという。中国で、ベトナムで、北朝鮮で失敗を繰り返し、何より最近ではイラクでの大失敗で「超大国アメリカ」の威信を傷つけた…と批判される。

そもそも現地の言葉を話せる人を雇っていなかったり、上層部に食い込めるような高級なスパイを雇うのに失敗している。中東に家族が住んでいる場合、たとえアメリカ市民であっても中東出身者を雇わないため、中東情報に関しては、これまた有名なイスラエルの諜報機関モサドに頼り切りだとされ、そのため「ユダヤ・フィルター」のかかった情報にしか接する事ができないという。さらに最近は就職先としても人気がなく、有能な新人のスカウトが出来ていない。情報機関として人こそが資源であるのに、果たしてこのままでよいのだろうか。

また本書では、JFKことジョン・ケネディとその弟、ロバート・ケネディが駄目人間に描かれているのも面白い。彼らは実際にキューバのカストロ暗殺を目指し、本書ではケネディ暗殺が、それに対するカストロ側の報復であったことが強く示唆されている。ところが、CIAは自らの組織防衛を第一に考え、有名なウォーレン委員会でその背景を正確に使えなかったとして批判されている。

筆者の問題意識はイラク戦争を強く意識している。その無能さから時の政権に冷遇され、それがために政権に迎合し、ついにはホワイトハウスに受ける情報をでっち上げる所まで落ちていく。「大量破壊兵器」が存在するという誤った情報に基づいて、イラク戦争は開戦され、アメリカは泥沼にはまり込んでいった。日経新聞1月の「私の履歴書」でハワード・ベーカー元駐日米大使が述べていたが、国家の命運を左右するトップの諜報機関がこれだけ不正確な情報を上げてきたら、ホワイトハウスといえでも判断を誤るということなのだろう。

日本版には歴代自民党政権への裏金供与の話題と、冷戦後に新たな活躍の場を求めて日米通商摩擦で経済スパイ行為を働いた話題が出てくる。後者に関しては当時盛んに噂されたものだが、本書を読む限りあまりワークしたとは思えない。そもそもCIAに経済・通商問題の専門家がいない以上、実のある「スパイ」等出来ないということなのかもしれない。

スパイ物の映画・小説や、陰謀物では大活躍(?)のCIA、その余りにも情けない姿に読んでいて薄ら寒くなるが、その膨大な注釈が示すように、著者はパブリックな情報と顕名のインタビューによると主張している(上巻腰巻曰く「噂、伝聞一切なし」)。そして下巻腰巻曰く「CIAは公式HPで必死の反論」。果たしてどちらに軍配は上がるのか?

CIAによる「反論」はこちら

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2008年09月07日

選挙のパラドクス

選挙のパラドクス」を読んだ。著者のウィリアム・パウンドストーンはジョン・フォン・ノイマンを描いた「囚人のジレンマ」でも知られる。

3人以上の候補者から当選者を決める選挙では、意外な結果につながる場合がある。日本の選挙でも用いられている「相対多数投票」では、候補者の中から一人の名前を選んで投票する。最もシンプルでオーソドックスなこの方法で、よく問題になるのは票割れだ。たとえば自民党が候補者調整に失敗して、保守系候補が乱立した場合、野党候補者が勝ってしまう場合がある。たとえ負けた保守系二人の票数合計が、勝者を上回っていたとしても。あるいは、次回衆院選で共産党は独自候補者を絞り込むと言う。これによって、反自民票が民主党候補に流れた場合、今まで票割れによって負けていた野党候補が逆転勝利をおさめる可能性が高まる。アメリカでは、2大政党である共和党、民主党が、この票割れを誘発すべく、相手方と近しい泡沫候補(スポイラー)に金銭支援を与える事まであると言う。

スポイラーに邪魔される事なく、「民意」を最も反映する選挙方法は何だろうか?この問題意識の下に、本書は様々な選挙方法を取り上げていく。まずは、映画のアカデミー賞や、メジャーリーグのMVP選出に用いられる「ボルタ式得点法」。そこでは、複数候補に対して、有権者がランク付けを行う。そして、投じられた順位を合計して、もっとも数字の小さかった候補が当選となる。スポイラーがいたとしても、メジャーな候補の順位を上にする人が殆どだろうから、実質的な順位には影響を与えない。あるいは、同じくランク付け投票を行い、考えられる全ての1対1勝負を行って、全員に勝った候補を当選させる「コンドルセ投票」。真の勝者は誰よりも強いはず…という直感にも当てはまる。

ところが、この2つの方法も完璧ではない。まず、コンドルセ投票では「コンドルセ循環」が起こりうる。グー、チョキ、パーの3候補が出た選挙で、ちょうど3分の1の人がグーを1位に(そしてチョキを2位、パーを3位)、また3分の1がチョキを1位に、残り3分の1がパーを1位にしたとしよう。グーとチョキの対決ではグーが勝ち、チョキとパーの対決ではチョキが勝つ。ではグーが当選か?いやいや、パーとグーの対決ではパーが勝ってしまう。確率的には低いとしても、コンドルセ投票では原理的に勝者が決まらない場合が出てくるのだ。

問題があるのはボルタ式も同じ。最も問題となるのは、自分のお気に入りの候補を勝たせようと戦略的に操作が行われる事だ。甲乙付けがたい有力2候補が争っているとする。そのまま投票が行われれば、一方が1位、他方が2位となるだろう。ところが、どちらかを勝たせたいと思う有権者は、ライバル候補をわざと最下位に置く戦略を立てる。他の有権者がそうした戦略を立てずに投票すれば、本来近しい得点で上位を占めるはずの2候補に大差が付いて、結果は歪められたものとなるだろう。

さらに言うと、ある投票結果に対して、ボルタ式とコンドルセ投票で、勝者が異なるケースを考える事もできる。どちらかを優先する原理がない以上、どちらも完璧ではありえないのだ。

ではどうすればよいか?一人だけを選ぶのではなく、複数の候補に投票出来る「是認投票」ではどうか?似た候補者のどちらをも支持する有権者は、その両方に投票すればよいから、スポイラーには影響されない。この方法もまた問題を抱える。極端な例として、有権者1万人中9999人から好かれるA候補がおり、この人たちはBは凡庸、Cは最悪だと考える。ところが、残り1人の有権者は逆にCを好み、Aを嫌い、やはりBは凡庸だと思っているとしよう。相対多数投票でも、ボルタ式でもコンドルセ投票でもAは勝者だ。だが、9999人がお好みのAに加えて、まあまあのBも是認し、そして変人の有権者がBとCを是認した場合、満場一致でBが当選してしまう。場合によっては、ロス・ペローがアメリカ大統領になっていたかもしれない!

さて、ランク付け投票の変形として、「即時決選投票」システムがある。有権者はやはり全候補者にランク付けを行う。最初の投票で過半数を獲得した候補がいれば当選。いない場合、最下位候補を1位に選んだ有権者の票は、それぞれ2位に選んだ候補の票としてい再分配される。ここで過半数が出ればやはり終わり。出なければ再び最下位候補の票を次の順位の候補者に再分配…と繰り返されていく。この方法だと、トップ2人の候補を1位に選んだ票は最後まで再分配されないから、ボルタ式の時に見られた「操作」方法は通用しない。この方法もやはりスポイラー対策となる。だが、スポイラーが実際に有力候補であった場合(それはもはやスポイラーとは呼べないかもしれないが)、この方法は機能しない事がある。端的に言うと、ある候補をより上位にした結果、それが候補者に不利に働く事があると言うのだ。

リベラル、超保守、穏健派の3候補がいて、この順番でランク付けが行われたとしよう。即時決戦投票のルールにより、第3位の穏健派候補は失格となり、彼を1位に選んだ票はリベラルか超保守の2人に再分配される。穏健派を選んだ有権者の多くは、超保守よりもリベラル候補を好んでいたとすると、当選するのはこのリベラル候補だ。さて、リベラル候補が、自分の当選可能性を高めようと、超保守候補の支持者を切り崩そうとしたとする。そして、最初の投票結果がリベラル、穏健派、超保守となったとしよう。今度は超保守候補が失格し、超保守候補支持者はリベラルよりも、穏健派を好む(ありえる話だ)とすれば、決選投票では穏健派が勝ってしまう。おや?リベラル候補は獲得票を増やしており、また、投票直前に考えを変えて超保守でなくリベラルに鞍替えした投票者の意に反し、リベラル候補は落選してしまうのだ。これこそが「即時決選投票」の持つ「勝敗逆転パラドクス」だ。

ではもっと良い方法はないのだろうか?著者によれば、現状考えられるベストな方法は「範囲投票」だという。全候補者をランク付けするだけでもなく、得点を割り振るのだ。たとえば1点から10点を与える事にして、10人の候補者に10通りの点数をつければそれはランク付け投票であるし、お気に入りに10点、気に入らない候補に0点をつければ、それは是認投票だ。有権者の「本当の」効用を計算するコンピュータ・シミュレーションによれば、現在のところ、この範囲投票が最善とされている(範囲投票を上回るのは、有権者の効用をあらかじめ知っている「神の目」で結果を決める「魔法の」システムだけであった)。この方法はamazon.com等でも採用されている。他の投票制度の抱える問題点を、範囲投票は避ける事が出来る(ロス・ペローは大統領には選ばれないのだ)。

ところが、アメリカで現在、広く採用されつつある投票方法は「即時決選投票」だ。何故か?即時決選投票の最大の欠点は、上で述べた「非単調性」、つまり、ある候補を上位に入れた事により、それが候補者自身に不利に働くというパラドクスだ。2大有力候補が争う多くの選挙では、このことは問題とならない。非単調性が問題になるのは、ある程度有力な第3候補が現れた場合。二大政党制の下では、このことは想定されていない。範囲投票では、たとえ51%の支持を集めたとしても、52%の支持を集めた候補がいれば敗れてしまう。このことが、出来るだけ最小の努力で、当選を確実にしたいと思っている既存の政治家の気に食わないのだという。

確かに即時決選投票は2大政党制では問題なく機能する。だが、だからこそ、2大政党制でない「可能性」の芽を摘んでいるのではないか?敵か味方か式の決選投票ではなく、より広範囲の支持を集める穏健派(中道派)第3党は、範囲投票であれば勝利しうるし、それが「民意」に適った事なのかもしれない。だが、2大政党制下では、それを前提とした選挙制度が生まれ、それを前提とした有権者行動が行われる。少なくとも、コンピュータ・シミュレーションでは範囲投票が即時決選投票に劣後することはない。著者は、どこかで、範囲投票を採用するコミュニティが誕生する事を、そしてその結果がどうなるか観察する事を期待している。

余談だが、本書で「即時決戦投票」を支持する最も影響力のある3人として上げられているのが、ハワード・ディーン、ジョン・マケイン、そしてバラク・オバマだ。後者二人はもちろん、今回の大統領選挙で対決する候補者だ。つくづくアメリカは2大政党制の国なのだろう。彼らが、ブッシュ政権のカール・ローブ顧問が唱えたように、「過半数プラス1票」の支持さえ得られれば残りの有権者にはどんなに嫌われても構わない…等と考えないことを希望したい。
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2008年05月01日

まぐれ

タレブのエッセイ、「まぐれ」を読み終わった。原著の"Fooled by Rondomeness"を読みたいと思っていたのだが、例によって例のごとく、英語だからなぁ、と億劫がっていたら有難い事に翻訳が出版されたのだ。著者のタレブはオプションのトレーダーとして名をはせ、現在はランダムネスについての研究を進める学者でもある。エキゾチック・オプションの現場にいる人間なら誰もが一度は目にしたことがある、"Dynamic Hedging"の著者でもあり、衒学的な、非常に読みにくい英語を書く人でもある。そのせいもあって英語版になかなか手が出なかったのだ。

「まぐれ」は、いかに人々が確率事象にまどわされているかを取り上げている。そして、それはタレブによればオプションのトレーダーだって例外ではない。金融商品としてのオプションは、そもそも確率的事象にベットするものだ。広い意味では保険もこの範疇に入り、金融の現場では単純な売り持ち・買い持ちと違い、非線形なペイオフ(収益曲線)を持つもの…といった様な意味合いでも使われる。単純化してしまえば、ある事象が起こったときに得をする(そして起こらなかったときには得をしない)商品があったとしたら、一体それを幾らで買ったらよいか、という問題だ。したがって、ポイントはその「得をする」事象がどれだけの確率で起こるかを見積もるところにある(もちろん、そうした商品のトレーディングというのは、他の人々がどれだけの確率だと思うかを当てる、「美人投票」となるのだが)。

本書には、タイプライターの前に座った猿が全く偶然に、たとえば「イーリアス」を完成させたら驚きだが、同じ事を試した猿が膨大にいるんなら別だ、という話が出てくる。僕の好きなたとえで言うと、1024人で勝ち抜きジャンケン大会を行えば、一人は「奇跡の」10連勝をするし、きっと「ジャンゲン哲学」でも語ったりして有名人になったりするのだろう。あるいは、天文学で出てくる話で、遠方に存在する星は相対的に明るい星が多いのは何故か?という問題がある(答えは、暗いと観測できないから、必然的にそうなるというselection bias)。

こうした分かりやすい話はともかく、一般的に人は確率事象の非線形な状態を理解できないのだ、とタレブは説く。あなたはギャンブルで勝つ状態と、負ける状態の線形結合です…と言われても、一体全体それは何なのだ、という事になる(この辺りは量子力学の確率的事象に対する「シュレディンガーの猫」の喩えを想起させる)。

ジャンケンの例でいえば、彼は必ずしも勝ち続ける華々しいトレーダーを評価しない。それが単なる偶然でないと、一体誰が保証できるのか?トレーダーとしてのタレブ自身は、ごく稀にしか起こらないが、起こったらインパクトの大きな「ブラック・スワン("black swan")」にベットする事をモットーとしている。誰もが可能性を認めながらも、蓋然性を無視しているファットテール事象、あるいは「10シグマ」事象が、一度起こったときの影響の大きさは、2007年夏以降の金融市場崩壊で良く話題になる。実際、サブプライム問題以降、タレブのブラック・スワンというキーワードが頻繁に用いられた。

ちなみにブラック・スワン(黒い白鳥)とは、それがオーストラリアで発見されるまで、誰もが「白鳥は白い」と信じて疑わなかったことから、極めて稀だけれど、起こりうる現象としてタレブがよく使う表現。同名の本も書いており、邦訳は「まぐれ」と同じ望月衛によって近々刊行されるとのこと。今から楽しみだ。望月衛はベストセラー「ヤバい経済学」も翻訳しており、この「まぐれ」も間違いなく2008年の経済関連図書売り上げランキング上位に来るだろう。時宜を得た出版と、彼のこなれた翻訳で非常に有意義な出版となった気がする。

タレブはレバノン人であり、ウォートンのMBA,そしてパリ大学でPh.D.を取得している。彼の友人であり、また同じくレバノン人であり、本書を著す元となる議論の相手となった人物としてジャミール・バーズの名前が挙げられている。僕がロンドンで新人研修を受けているとき、彼の授業を受けた事もあり、教科書にはなかなか出てこない題材をうまく講義に取り込んでいて、今でも彼の講義ノートは手元に取ってある。そんな彼もいつしか「ランダムネス」=「まぐれ」の世界に足を踏み入れ、トレーダーとなっていった。今は一体どこで何をしてるやら(今はピムコにいるらしい)。

もう一つ、本書で非常に面白かった点として、彼がカール・ポパーを高く評価している点がある。いわずと知れた科学哲学の泰斗にして、「反証可能性」とキーワードに一時代を築いた人物だ。学生時代に物理学を学ぶ傍ら科学哲学に興味を持ったせいもあり、タレブの言う「ポパーの答え」は印象深い。曰く、「理論のあり方には二つしかない」。それは「間違っていることがすでにわかっている理論」と「間違っていることが証明される可能性のある理論」だ。そんな中、タレブは何をするか?もちろん、反証されにくい、言い換えれば最も生き延びる「確率の高い」戦略を取るのだ。彼の運営するヘッジファンドに幸あれ!
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2008年04月12日

宗教マンガ

前回の日記(「上野樹里2作品」)で取り上げた2作品や、出世作「スウィングガールズ」以外にも、上野樹里の主演映画は沢山存在する。そんな中で、マンガが原作の「笑う大天使」(「わらうミカエル」と読ませる)という作品がある。以前、キリスト教についていろいろ調べているときに、何故か参考文献として知り合いから貸してもらったのがこのマンガ。「聖ミカエル学園」を舞台にしたコメディー作品だが、物語のあちらこちらに聖書由来の薀蓄などが散りばめられていて、まあ、確かに勉強にはなるが、恐らくこれだけでは相当偏った知識しか身につかないだろう。マンガ自体はそこそこ面白いのだが、映画版は一昔前のアイドル映画のノリと言うか、まあ未見の人も見なくて良いでしょ…と言う程度の出来。

このマンガを借りたとき、ジョージ秋山の書いたマンガ版の聖書があるね…という話も出た。こちらは旧約・新約聖書をそのままマンガ化したもので、なかなかに出来もいいらしいのだが未見。キリスト教圏の文学・映画を見ていたり、旅行していたりして、聖書の知識がもっとあれば…と思う事が何度もあるのだが、いまさら聖書そのものを読むというのも荷が重いのでマンガでも、と思いながら結局まだ手が出ていない。

ところで、先日「週刊文春」を読んでいて、マンガの「聖☆おにいさん」という作品が紹介されていた。イエスとブッダが世紀末を無事に乗り切り、何故か日本の立川で下宿しているという設定自体が面白かったので先日早速読んでみた。水泳の苦手なイエスが頑張って水面に顔をつけようとしたところ、モーゼの様にプールの水が割れてしまったり、おなかがすいたブッダが何もないお皿を持っていると、猫が走ってきて自らバーベキューになろうとしたり、二人のエピソードにまつわるギャグが満載。近所の神社のお祭りでは、御神輿を担いでテンションが上がりすぎたイエスは「わっしょい、わっしょい」ではなくて、「アーメン、アーメン」、「アガペー、アガペー」と叫んでしまったりもする。12月に発売されると言う第2巻が早くも楽しみな作品だ。

「聖☆おにいさん」の中で、ブッダは手塚治虫の「ブッダ」を読んで感動、全巻衝動買いしたりもする。と言うわけで、久々に僕も「ブッダ」を読み返し始めたりしている。まだシッダルタ(後のブッダ)が出家する前だが、徐々に世の中の矛盾を感じ始めたところ。「笑う大天使」、「聖書」、「聖☆おにいさん」、「ブッダ」…世の中にはいろいろな宗教マンガがある。
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2008年03月11日

量子ファイナンス

トンデモ本の世界U」を読んでいたら、「量子ファイナンス工学入門」と言う本が登場していた。2006年度日本トンデモ本大賞を受賞したと言う本書、「なにかが間違っている経済理論」として紹介されている。

株価がニュートン力学の運動方程式に従うと述べ、物理の教科書の最初に必ず登場する放物運動を株価に適用する。重力を「市場を支配する強力なデフレ圧力」としたり、初速度を政府による「株価対策」とみなして、その効果が途切れるまでの(≒投げ上げた質点が地面に達するまでの)時間を計算したりしている、らしい。もっと面白かったのは、

『株価の運動をつかさどる4つの力を検討する。4つの力とは、万有引力(重力)、電磁気力に加え、素粒子に働く強い力と弱い力を指す。後者の強い力と弱い力は通常の金融資産の運動方程式には表れない。だが、運動方程式を量子化しようとすれば、両者の力を考慮せざるを得ないことを明らかにする。』

と「まえがき」で述べていることに対し、「トンデモ本の世界U」が、電磁気力の量子化だけでも難しいのに、

『四つの力を全て扱えたら、それは「大統一理論」であり、物理学者の長年の夢でありながら未だに実現されておらず(中略)経済学でそれをやってしまうという前田教授は稀有壮大な人としか言いようがない』

と突っ込んでいるところ(もっとも、普通は大統一理論=Grand Unified Theory、GUTと言えば、重力は含まれないのだが)。「前田教授」というのは著者の前田文彬のことであり、

『慶応大学の経済学部を卒業後、三菱銀行で国際金融部・国際証券部次長、三菱ファイナンス・インターナショナル副社長、三菱銀行史上営業部長、三菱経済研究所研究部長を歴任、現在は立教大学大学院ビジネスデザイン研究科教授なのだ』

そうだ。大丈夫なのか、三菱と立教。ちなみにこの「量子ファイナンス工学入門」、常日頃からトンデモ本を量産している「徳間書店」だの「たま出版」だのから出ているかと思いきや、「日科技連出版社」から出ている。この「日科技連」、我が家の本棚にもある「ファイナンスのための確率過程」や「ファイナンス工学入門」を出版している、オペレーションズ・リサーチやファイナンス理論では割と知られた出版社だ。会社のホームページを見てみると、他にも色々な分野の本を出しているらしい。

誤解して欲しくないのだが、数理ファイナンスが物理学でも用いられるブラウン運動を援用していたり、ファインマンによる量子力学での経路積分が、ファイナンスの確率微分方程式を解く際に適用可能であったりと、「物理学的手法で」ファイナンスの問題に当たることは全く普通である。ただそれはあくまでアナロジー、もしくは同じ確率論・統計学という「道具」を用いてある問題設定に当たるという類似性に過ぎないのであって、ファイナンスの基礎課程が純粋物理学的に記述される「べき」だと言うことでは、勿論ないのだ。

あいにく原著に当たっていないので、僕自身は批評する立場にないのだが、物理学を学んで金融業界にいる身としては、やはり気になる本ではある。学生時代も、たとえば相対性理論に対して反論している「トンデモ本」を読んで、逐一再反論出来たら相対性理論が分かってきた証拠…等と言われたものだが、この本の場合はどうだろう。まあ、読んでみる気はしないけれど。
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2008年02月26日

悪貨は良貨を駆逐する

先日、随分と久しぶりに映画「オズの魔法使い」を見直した。カンザス州の田舎に住むドロシーが、家ごと竜巻にさらわれる。家は落下して東の悪い魔女を下敷きにしてしまう。彼女が履いていたルビーの魔靴(?)を奪わんと西の悪い魔女が付狙う中、脳みそのない案山子・ハートのないブリキの樵・勇気のないライオンと共に、エメラルドの都に住むと言うオズの魔法使いを訪ねる旅を始める。家に帰してもらう条件として西の悪い魔女退治を命じられ、見事都へ戻るドロシー達だが、オズの魔法使いは同じカンザス出身の奇術師であることが判明する。悲嘆に暮れるドロシーだが、北の良い魔女のアドバイスに従って、見事カンザスへと戻ることが出来たのだった…。

ところで、この「オズの魔法使い」には金本位制度に絡む裏の意味があると言う話をこちらのブログで始めて知った。ネットで調べてみると、たとえばwikipediaの「オズの魔法使い」のページにもそうした記述がある。

先日書いた「マネタリスト」でも引用した「歴史が教えるマネーの理論」にもこの話題が出てくるので紹介してみたい。グレシャムの法則(「悪貨は良貨を駆逐する」)の説く通り、「悪貨」すなわち、割高に評価された貨幣(含有金属が少ない等)と「良貨」が共存する場合、人々は悪貨ばかりを流通させて良貨を手元に退蔵することになる。従って、金銀複本位制においては、金貨と銀貨とで相対的に市場価値が低下した側が流通することになる。つまり、常にだぶついた側が貨幣となることで、インフレ圧力を内在している。本来、金銀複本位制を取っていたアメリカは南北戦争後のインフレを抑制するため金本位制に移行、以後デフレ圧力を受ける。価格変動の大きな農産物のデフレはさらに激しく、(カンザス等の)農業地域住民からは金銀複本位制度復帰を求める声が上がる。

共和党の第25代大統領ウィリアム・マッキンリー(オズの魔法使いのモデルとされる)は金本位制度維持を、民主党の大統領候補ブライアン(こちらはライオンのモデルとされる)は金銀複本位制復帰を訴えて争い、マッキンリーが勝利することになった。その後、歴史の皮肉と言うべきか、新たな金精製法の開発により、金産出量、ひいては将来のさらなる金増加予想から、(金貨が「悪貨」となることで)デフレは終焉することになるのだが。

ところで、この 「歴史が教えるマネーの理論」には、同じく金銀複本位制度を採用していた江戸時代の貨幣が、当時としては国際的にも高水準の「管理通貨制度」に近かった事などが述べられており、なかなか興味深いテーマが書かれているので関心のある方にはおススメ。歴史の授業で習った江戸末期の金貨国外流出等も、また違った観点から眺めることができて楽しい。

さらに余談だが、マッキンリーはアラスカのマッキンリー山にも名前を残しており、リンカーン、ガーフィールド、ケネディと共に暗殺されたアメリカ大統領としても知られている。
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2008年02月10日

マネタリスト

最強の経済学者 ミルトン・フリードマン」を読んだ。「はじめに」で著者が述べているように「公式伝記ではない」そうだが、フリードマン本人の原稿チェックも入っており、ヨイショ本とは言わないまでも、中立・客観的な記述とは必ずしもいえないかもしれない(似たような印象は、世界最大の債券ファンドであるピムコを取り上げた「債券王ビル・グロース 常勝の投資哲学」を読んだときにも感じた。そういえばどちらも表示が本人の顔写真だ)。

ミルトン・フリードマンとはもちろん、ノーベル経済学賞を受賞した天才経済学者であり、マネタリストの重鎮としてシカゴ学派を代表する。本書の中でも述べられているが、理論のための理論には異議を唱え、「実際に起こりえる事実で反証できない理論は、予測の役に立たない」として、経済学の実証性を重視した。この辺りは数学と物理学の関係を想い起こさせる。晩年にはリバタリアン(自由市場主義者)として、メディアを通じた啓蒙活動や、米レーガン政権の経済政策に対して理論的支柱として貢献した。

さて、フリードマンといえば「インフレは、いついかなる場合も貨幣的な現象だ」という台詞が有名だ(本書でも最初にこの語句が引用されている)。飯田泰之の「歴史が教えるマネーの理論」に基づいて、貨幣数量説を考えてみる。

物価を「ある一定の買い物をするのに必要な」マネー(貨幣)量と定義する(どの意味での「マネー」を用いるべきかという問題は「最強の〜」でも触れられているが、ここでは置いておく)。したがって、物価はマネーの価値の逆数であり、まさしく物価はマネタリー(貨幣的)な現象だ。みかん1個が金1グラムと交換される世界では、他の条件が一定のまま金の量が増大すれば、みかん1個が金2グラム、3グラム…となっていく。次に、金そのものではなく、金を含む金貨が貨幣だとすると、1両小判に金1グラムが使われていれば、みかん1個の価格は1両だ。ここで、貨幣改鋳(悪鋳)で1両の金含有量が0.5グラムになれば、みかん1個の価格は2両になるだろう。すなわち、マネーの量が2倍になり、価格も2倍になった。価格はマネーの数量に比例する(貨幣数量説)。歴史的にも、15世紀半ばからの1世紀程(大航海時代)には、新大陸から銀の流入が続いたスペインではインフレが観測され、銀の流入が少なかったイタリアでは相対的に物価上昇は抑えられた。

ところが、19世紀後半のイギリスなど主要国では、マネー増加・物価下落が同時進行した。何故か?その理由は、産業革命以後の生産性向上により、取引量そのものが増大したためだ。「ヨーロッパで金銀が20倍に増加したとしたならば、農産物や諸商品の価格は20倍に騰貴する。しかし一方で、もし商品の数量が2倍に増加したとすれば…その騰貴率は10倍でしかないだろう」(モンテスキュー)。価格が物の希少性を反映している事を考えれば当然だ。ここから、新古典派経済学の貨幣数量説が得られる。すなわち、マネー(M)、1年間のマネーの回転数(V)、物価水準(P)、交換される財の量(Q)とすると、当然ながらMV=PQ(あるいはP=MV/Q)だ。従って、その対数微分を取って、

インフレ率(dP/P)=マネーの増加率(dM/M)-経済成長率(dQ/Q)+マネーの流通速度の変化率(dV/V)

を得る。マネーが増加したとしても、それを上回る経済成長がある(あるいは、マネーの流通速度が低下する)場合は、物価は下落する。通常、vは一定と考えてよい(と仮定する)ので、経済成長を調整した後の素朴な貨幣数量説が得られる。

マネーの急激な増加がインフレを招く例としてハイパーインフレーションが上げられる。第1次世界大戦後、敗戦国オーストリアは、国債の中央銀行引き受けによって「お札を刷ってばらまいた」。その結果、急激なインフレが起きている。ここまでなら貨幣数量説の勝利…と言いたいところだが、実際には1922年10月以降、マネー供給は高率での成長を続けながらも、物価上昇はピタリと止んでしまう。一体何が起こったのか?実は、国際連盟による敗戦国救済の議論が始まり、人々の「インフレ期待」が剥落、マネーの流通速度が低下したのだ。貨幣価値の下落を防ぐために、人々を急いで消費に向かわせていた要因がなくなり、ハイパーインフレは終焉した。ここから、現代的には「将来のマネーの量の予想」(期待)からインフレ率が決定されると考える。

インフレでなくデフレでも同様の例が見出される。第1次世界大戦中に金本位制が停止され、日本はインフレを経験した。金本位制への復帰に当たり、戦前の金・円交換比(旧平価)を採用すべきだ…という意見が強くなると共に、人々の間にデフレ期待が醸成される。政策の基本姿勢(レジーム)がデフレ的である事が認識され、その認識自体がデフレを産む。あたかも株価が将来の企業業績予想を織り込むように…。

ちなみに、関東大震災後の不良債権、中国進出企業による安価商品の輸入等、当時のデフレ環境はバブル崩壊後「失われた10年」の日本の状況と類似点が多く見られる。デフレによって「問題企業」を潰し、日本経済を筋肉質にしよう…といった議論が多く見られたと言う。80年経っても同じ議論が繰り返されているのだ!この辺りに関しては安達誠司「デフレは終わるのか」が詳しい。

さて、人々の「期待」を重視するならば、政府が何らかの経済政策を行おうとも、人々はその結果を予測し、それに基づいて行動を起こすので、全く政策効果はないことになってしまう(ロバート・ルーカスの合理的期待仮説)。ルーカスもまたシカゴ大学教授であった。以前に紹介した「経済学の正しい使用法―政府は経済に手を出すな」の著者ロバート・バローや、経済学ブログでも知られるゲーリー・ベッカーもシカゴ大学教授だ。さらには、何度も触れてきた「ヤバい経済学」のスティーヴン・レヴィットもシカゴ大学だ。思わず手に取る経済学系エッセイはシカゴ学派が多いのだが、ケインジアン系で面白い読み物はないものだろうか?
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2008年01月17日

相対価値の絶対計算

最近、山形浩生の名前を目にすることが多くなり、何冊か読んでみようと思っていたところに、彼が訳したイアン・エアーズの「その数学が戦略を決める」(原題"Super Crunchers")が面白いという書評を見かけて読んでみることにした。彼が「絶対計算」と訳すところの、テラ・バイト(1テラ=10の12乗=1兆)単位のデータへの統計演算処理に基づく全く新しい「戦略」について書かれた本だ。

序章からして面白い。プリンストン大学の経済学者、オーリー・アッシェンフェルターによれば、ボルドーワインの質は次の式で分かる。つまり、

ワインの質=12.145+0.00117×冬の降雨+0.0614×育成期平均気温−0.00386×収穫期降雨

専門家の経験と直感をはるかに凌駕する「絶対計算」…その本質は膨大なデータ内に見出された、今まで誰も気づかなかった相関関係を抽出することにある。この本でも言及されている、マイケル・ルイスの「マネー・ボール」でも似たような話が紹介されていた。野球のスカウト達の「経験と直感」によらずとも、コンピュータ上で選手のデータを分析しさえすれば、他のチームが気づかない有望選手を見出せる、と。以前、『子育て』でも取り上げた「ヤバい経済学」とも同じ流れだ(同書の共著者、スティーヴン・レヴィットとスティーヴン・ダブナーは、エアーズとの共同研究や共著がある)。

本書中で紹介されるエピソードでもう一つ面白いのは、映画が興行的に成功するかどうかを、役者や監督によらずシナリオだけから判定するアルゴリズムを開発したディック・コパケンの話。もちろん、業界からは総スカンで、このモデルに基づいて大金を持参したヘッジファンドを前に、映画会社は頑なにその利用を拒んだと言う。ヘッジファンドは落胆したか…否。そうした不完全性、非効率性を見出した彼らは、帰り道は喜色満面だったと言う。実際、このアルゴリズムを用いて、大コケした映画のシナリオを作り直す計画があると言う…「ちょっとした変更さえ加えれば、この台本は純益が二十三倍になると考えている」。

そう、こうした一見無関係に見える膨大なデータの背後に何らかの相関関係を見出すという作業は、クレジットカード会社やアマゾンのマーケティング、経済学者の実証分析を除けば、ヘッジファンドがもっとも得意とする分野なのだ。日々、取引価格や市場価格が観測され、高度に情報化された金融市場はまさにこうした「絶対計算」の格好の標的だろう。事実、株式・債権・商品・為替と市場の種類を問わず、何らかの数学的なモデルを構築し、割高な物を売り、割安な物を買う、所謂クオンツ・ファンドがそこかしこに存在している。

もちろん、そうした統計データに基づく取引は、モデルの前提が崩れた場合にはいっせいに逆回転する危険もある。サブプライム問題で全リスク資産が「相関係数1で」叩き売られた2007年夏には、ゴールドマン・サックスの旗艦ファンドを含む多くのクオンツ・ファンドが巨額の損失を計上した。それでも、そうした「相対価値」を見出す魅力と面白さにとらわれる人々は多い。ブルームバーグ・マガジン(日本語版)の2月号でも、そうしたヘッジファンドの代表格である「ルネッサンス・テクノロジーズ」が取り上げられていた。創設者、ジム・シモンズは「かつて太陽の黒点活動が相場に影響するかについて調べたことがある」…今日も世界中で、ヘッジファンド御自慢のクオンツ・モデル達による「絶対計算」が続いている。
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2007年09月23日

古典イッキ読み

作家・ジャーナリストの日垣隆が企画催行した読書会、「『読まずに死ねるか古典イッキ読み』講座」に参加してきた。事前に8冊の課題図書が指定され、当日各自が読み込んで来た上での討議といった趣だ。課題図書それぞれ異なる「読み方」を想定した上で、読書の方法論を学ぶ、という裏の意図もあったらしい。

課題図書と、「読み方」は以下の通り:

●夏目漱石「吾輩は猫である」(角川文庫)…注釈を通読して時代に浸る

本文を全く読まずして、注釈を味わうという趣旨。古典はどうしても時代背景を知らないと理解できない部分があり、それ自体を楽しんでしまおうという企画。当日説明として出てきた例が、「『そんなの関係ねぇ』という文章があったときに、『当時の芸人・小島よしおの持ちネタに由来する。』とか書かれてないと分からないわけですね」というもの。…って、この文章もしばらくしたら通じなくなるかも(個人的には彼の芸は好きなのだが)。

ちなみに相互に引用し合えるようにということで出版社まで指定だったのだが、講師役の日垣隆が持参したのが集英社文庫版、その上ネタとして考えていた注釈が肝心の角川文庫版にはないという手違いも。さらに、同じ文庫でも活字の大きさが変わったりして、ある文章の載ったページがまるで違うことも判明。今回、本当は角川文庫版を持っていたのに新たに買ってしまったのだが、その二つは同じページ数だった。

●福沢諭吉「新訂 福翁自伝」(岩波文庫)…人に伝えてみる

●ヘミングウェイ「老人と海」(新潮文庫)…解説で視野を広げる

福田恆存(つねあり)による巻末の解説を味わおうという趣旨。ヨーロッパ文学に比べると、アメリカ文学は人間の捉え方が浅いと言い切るなかなか刺激的な解説は、確かにそれだけ読んでも面白い。「老人と海」本編を読まなくても、この解説だけでもちょっとした欧・米比較文学論としての読み応えがある。当日の読書会で出たやり取りの中で、、「私は『左翼』世代だったので、福田恆存という名前を見ただけで、そんな右翼の文章は読んじゃいけないと思ってしまう」というのがおかしかった。ちなみに「進歩的文化人」という言葉を最初に使ったのは福田恆存だそうだ。

●オルテガ「大衆の反逆」(ちくま学芸文庫)…自分にひきつけ読む

日垣隆が最初にテキストに指定したもの。ただ、当日の参加者からは余り面白さが分からなかったという反応が続出して、彼が落ち込んでいた様子だったのが印象的。

●マルクス「ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説」(岩波文庫)…難解な古典を楽しむ

今回のテキストで最難解なもの。参加者からも読みきれなかったという声が続出。最後まで読むことは出来ても、結局のところ、何が書いてあるのかちんぷんかんぷんということになりかねない。僕の場合は…まあさておき。日垣隆自身がこのテキスト採用に当たって述べた文章を引用しておこう

「それにしても、『ユダヤ人問題によせて』は、しんどいですか。薄い本なのにね(薄さは関係ない?)。

今、試みに「ウィキペディア」を見ましたら、カール・マルクスは《20世紀において最も影響力があった思想家》とあります。実際、そうでしょう。そういう人物が書いた本を、1冊くらいしっかり読んでおきましょうよ、という趣旨ですが、むしろ「1冊だけ読む」ほうが難儀かもしれません。理解する早道(結果的な近道)は、いくつかあります。

1、マルクス自身がドイツ人、かつユダヤ人(両親がユダヤ教徒。父はプロテスタントに改宗)であった、という程度の事実を先におさえる
2、なぜマルクスが、これほど強烈にバウアーを批判せざるをえなかったのか、を考えながら読む
3、青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)について調べてチャート化してみる。この学派について頭に入れないと、何を批判しているのかよくわからない
4、巻末の訳者解説をじっくり読んでから、本文を通読する
5、古典には必ず解説書があるので、ネットで入手してさらりと通読してみる。いちいち(古典の)本文にあたることをせず、解説書は流し読むのが肝心。10個も「なるほど」があればそれで充分
6、古典は細切れに読まない。イッキに読む。わかってもわからなくても最後まで辿り着くことを最優先にする
7、勉強会に出る(読み終える期限を設ける)」

また、彼は本当は同じマルクス(とエンゲルス)による、「ドイツ・イデオロギー」(いわゆる「ドイデ」)を考えていたが、「ドイデ」に対しても

「1840年代のドイツ哲学やマルクス研究について知識を持ち合わせている人以外、この本を読んでもチンプンカンプンなのではないか。周囲の何人かにも岩波文庫版を読んでもらいました。残念ながら「わけわからん」という様子です。もちろん古典をしっかり読むためには、その背後に横たわる幾多の教養が不可欠です。逆に、そのような古典を無理して読むことで、多くの教養を手に入れることもできます。

本当のことを言えば、『ドイツ・イデオロギー』を読む以上は、ヘーゲル『歴史哲学講義』、シュティルナー『唯一者とその所有』、シュトラウス『イエスの生涯』、フォイエルバッハ『キリスト教の本質』などを踏まえるのは最低限のエチケットです。エチケットと言って奇異に映るならば、探究心の端緒だと申し上げてもいいでしょう。」

と述べている。個人的には、この路線での「読書会」(あるいは「勉強会」)に出てみたかった気がする。何か芋づる式に勉強できるような主テキストを選んで、その周囲を知識のネットワークで埋めていくような。いつも本を読んでいるときでも、興味を持てばその作者の作品を軒並み読み込んでみたり、関連図書や参考図書に手を伸ばしていくことが面白かったりする(たとえば最近の僕のブームは金融政策・金融史の分野)。その意味では、8冊のテキストで4時間弱では、やや駆け足過ぎたかな。

●井筒俊彦「イスラーム文化」(岩波文庫)…苦手分野を名著で一気に

僕にとっては今回のテキストで一番の収穫がこれ。平易な文章(元は講演録)でイスラム教の、「その根底にあるもの」(テキスト副題)を語っている。すべてがイスラム化されるスンニ派に対し、聖俗の二面性を考えるシーア派、そしてそこにはゾロアスター教の善悪二元論の影響が見られる…といった部分はもっと突き詰めて勉強したい部分。以前「エジプトの神々」でも書いたように、三大宗教関係の分野は全くの門外漢だが、だからこそ興味の尽きない分野ではある。以前からイスラエルを一度訪れたいと思っているのだが、実際にいけるのはいつになるやら。

当日、井筒俊彦と同じ慶応大学出身という参加者が話していたエピソード。碩学として知られた井筒が東大に異動する話が出たとき、慶応大学側が引き止めるために立派な図書館を建てた由。慶応の図書館に行ったことはないのだが、学生も納得するほど立派だったとか。

●プラトン「ソクラテスの弁明・クリトン」(岩波文庫)…中学生気分で読む

●マックス・ヴェーバー「職業としての政治」(岩波文庫)…現実にひきつけて読む

有名な「伝統的・カリスマ的・合法的」という支配の3形態でも知られるテキスト。ちょうど安倍首相の辞意表明・自民党総裁選という時期でもあったため、1919年の講演録でありながら、身近な現実と照らし合わせて読んでみようという趣旨。面白いのは「官吏にとっては(中略)自分には間違っていると思われる命令(中略)が彼自身の信念に合致しているかのように」行動すべきだと述べている部分(41ページ)。当日は現役官僚の参加者もいて発言していたが、霞ヶ関の住人の皆さんはこの辺りをどう考えるのだろうか。
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2007年07月08日

百年戦争とワイン

福田和也の「バカでもわかる戦争論」を読んだ。前作「バカでもわかる思想入門」もそうだが、「新潮45」での連載を単行本化したもので、「オバはん編集長」こと、同誌の中瀬ゆかり編集長に福田和也が講義する…と言う形式で展開される。やや楽屋落ちが多すぎる嫌いもあるが、時に周辺の薀蓄知識も披露されながらの、くだけた口語体での文章は思ったより読みやすい。

余談だが中瀬編集長は西原理恵子の作品にもよく登場しているので、福田和也の文章に登場するキャラクターと比較すると面白い。

さて、「戦争論」自体は古今東西の様々な戦争を取り上げ、その背景や歴史的影響などを述べている。日本が関係したもの以外でも、スペイン戦争やキューバ革命(戦争?)は、馴染みがない事もあって興味深かった。

他に面白かったのは、百年戦争の回。懺悔ばかりしていたイングランドのエドワード(懺悔王="Edward the Confessor")の死後、ノルマン人を祖に持つノルマンディー公ウィリアム(征服王="William the Conqueror")がイングランドを征服しノルマン朝を開く。その曾孫、ヘンリー2世によるプランタジネット朝は、父母両家系からの相続で、現在の英仏両国にまたがる広大な領土を持つが、その息子、リチャード1世(獅子心王="Richard the Lionheart")やジョン王(失地王="John the Lackland")の時代を経て、次第にイングランドは大陸領土を失っていく(本来、"Lackland"とは、この大陸領土喪失よりも、幼少時に領土を与えられなかった事に由来しており、「欠地王」とでも訳すべきらしいが、「失地王」の訳語の方が一般的である)。

一方、フランスではカロリング朝の後を襲ったカペー朝がシャルル4世の代で断絶し、その従兄弟がフィリップ6世として即位する(ヴァロワ朝)。ジョン王の4代後の王、エドワード3世は、当初この即位を認めていたものの、自らもカペー朝の遠縁である事を頼りに、王位相続権を主張する。フランス西南部のボルドーを足掛かりにフランス全土の制服を視野に入れると共に、毛織物手工業が発達していたフランドル地方(現ベルギー)を勢力圏に置こうとし、フランスとの間に百年戦争が勃発する。

途中、ペストの大流行による中断を挟みながらも、黒い甲冑姿で知られたエドワード3世の息子・黒太子("Edward the Blackprince")や、さらにその息子リチャード2世、圧政で知られた彼の退位後に即位したヘンリー4世(ランカスター朝)、ヘンリー5世と世は移り、フランスは滅亡の危機に瀕するが、「救国の美少女」ジャンヌ・ダルクの活躍により、ついにイギリスを大陸から駆逐するに至る。今日、我々のイメージする「島国・イギリス」の基礎はこの時に築かれたと言える。

さて、イギリスによるフランス支配の名残として「戦争論」で触れられているのがボルドーのワイン。イギリス支配の長かったボルドーでは、領土分割を許さないゲルマン法の伝統により、代替わりしたりオーナーが替わっても、同じ銘柄が存続して作られていく。一方、権利者毎の分割を許すローマ法が浸透したブルゴーニュでは、相続や譲渡に伴って畑や醸造家もバラバラになっていってしまう。

そういえば「部長島耕作」でも、初芝電産貿易に出向してワイン輸入に携わった際も、独占契約の可能性がある…と言う事でブルゴーニュにターゲットを絞っていた。今度フランスワインを飲んでみるときには、百年戦争に思いを馳せてみる事にしよう。
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2007年04月10日

文藝春秋

雑誌の文藝春秋が創刊85周年記念として、「あなたが選ぶ文藝春秋びっくり記事85」という企画を行っている。過去に掲載された85本の論文から、人気投票上位5作品を選び、全文を再公開する、というものだ(ただし著作権者の許諾が選ばれた物のみ)。

やや右寄りスタンスではあるものの、同誌は論壇ではブランドとなっており、様々な著者によるオリジナリティ溢れる記事が売りだ。文藝春秋出身の有名人としては、作家の半藤一利や立花隆、名編集長・花田紀凱(かずよし)やコラムニスト・勝谷誠彦がいる。これらの名前を眺めていても、文春のスタイルがうっすらと見えてくる気がする。

85本の候補作リストの中では、中野好夫の『もはや「戦後」ではない』はそのフレーズも含めて有名だし、立花隆の『田中角栄研究・その金脈と人脈』は一内閣の命運をも左右した。さらに、他のジャーナリズムをも巻き込んで話題となった『昭和天皇の独白 八時間』や『「小倉庫次 侍従日記」昭和天皇 戦時下の肉声』は、いかにも文春らしいスクープ作品と言えよう。個人的には、後の日本新党結党・「55年体制」崩壊へと繋がる細川護煕による『「自由社会連合」結党宣言』が含まれていないのが意外と言えば意外か。

ところで、現在のところ、途中結果では「大殺界・細木数子の正体」が1位となっている。佐野眞一の作品だけに、未読だがきっと骨太な作品なのだろうとは思うものの、文春85年の歴史でこの文章が1位というのは…
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2007年02月12日

ゲームの達人

先月末、作家のシドニー・シェルダンが亡くなった。日本でもベストセラーとなった小説「ゲームの達人」("Master of the Game")の作者であり、同作品を出版したアカデミー出版の英語教育講座、「イングリッシュ・アドベンチャー」の作者でもある。

「ゲームの達人」を最初に読んだときには、そのあまりの面白さに文字通り夜も眠れず読んだ覚えがある。上下2巻のうち、上巻だけを友人から借りたのだが、翌日一刻も早く続きが読みたくて、学校帰りに友人宅まで押しかけたりもした。

当時、周囲にもこの小説を「布教」していたのだが、売り文句は「映画のラストシーンが次々と繰り返される」という物だった。映画や小説にはよく、「どんでん返し」があるが(たとえば、これまた大好きな映画である「スティング」等)、シドニー・シェルダンの作品では何度も何度もどんでん返しが行われ、予想が裏切られる事に快感さえ覚える。

「その手があったか」と言わせるのがお得意のパターンだが、以前何気なく深夜放送の映画を見ていて、アメリカ国内の時差を利用したトリックを扱ったシーンがあり、なんとなくシドニー・シェルダンぽいなぁ、と思っていたら彼の「天使の自立」("Rage of Angels")の映画化だったこともある。

もっとも、何年かして読み返してみると、もちろん既読ということは割り引いても、ある程度は想像できてしまったりもして、「想い出は取っておけばよかった…」と思った事もあるのだが。それでも「ゲームの達人」のラストや、「明日があるなら」("If Tomorrow Comes")のラストは今でも傑作だと思っている。

途中、徳間書店が何故かシドニー・シェルダン新作の翻訳出版権を獲得し、アカデミー出版が他の作家の作品を出し続けていた事もあった。また、その頃出版された彼の作品は、原題と似て非なる邦題がつけられる事が多く、何となく足が遠のいていた(小説に限らず、原題のニュアンスを生かしたまま巧みな日本語に変換された題名が好きなので。僕の中での一番傑作は"For Whom the Bell Tolls"=「誰がために鐘は鳴る」)。今回の訃報は残念だったが、これを機会にまだ読んでいない作品に手を出してみようと思う。

ただ、アカデミー出版の翻訳は、「超訳」と称して原文を大幅に改変しているという事もあり、コアなファンからは批判もあるらしい。この辺りは原文に当たった事がないのでよく分からない。「家出のドリッピー」を聞いただけで終わってしまっていたイングリッシュ・アドベンチャーで、「ゲームの達人」でも聞いて確かめてみる事にしようか。
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2006年06月04日

エコとエゴ

以前から、巷間流布する環境「問題」への言説に違和感を感じてきた。多くのメディアが取り上げるテーマだが、余りにも情緒的・感情的であったり、時には狂信的とも思える原理主義的主張に辟易することがある(さらには極めて政治的ですらある)。また、科学を謳いながら、極めて非科学的、非論理的であることも少なくない。しかし、中には読ませる本もあり、そうした本を見つけたときにはなるべく手に取るようにしている。

先日も、書籍広告で見かけた池田清彦の「環境問題のウソ」を読んでみた。筑摩書房のちくまプリマー新書の一冊であり、ターゲットとなる読者層がやや幼いせいか、大き目の活字、砕けた文体ではあるものの、内容自体はしっかりしたものだった(同じ著者による「やぶにらみ科学論」も面白いが、砕けた文体は共通しているから、これはあくまで著者固有のものかもしれない)。題名からしても自明だが、いわゆる「環境保護」、「自然保護」的な主張を斬っている(腰巻の惹句からして「京都議定書を守るニッポンはバカである!」だ)。CO2等の地球温暖化問題、ダイオキシン問題、ブラックバスでお馴染みの外来種問題、そして自然保護問題を論じている。

簡単に言えば、地球温暖化には決定的証拠がないこと、ダイオキシンは騒ぎすぎであること、外来種を毛嫌いするのは理屈に合わないこと、単なる「自然保護」は机上の空論であること…といった論調だ。イデオロギー的には反論する向きもあるかもしれないが、特に温暖化・ダイオキシンに関してはデータに基づく主張が展開されているので、環境保護論者も同じ土俵で是非反論して欲しい。

ダイオキシンに関しては、日垣隆の『「買ってはいけない」は嘘である』も面白い(後に「それは違う!」として文庫化)。もちろん、ベストセラーとなった「買ってはいけない」に対する反論なのだが、そこでもダイオキシンに対して過剰反応する態度への警告が述べられている。また、やや違う視点からの武田邦彦「リサイクル幻想」でも採り上げられている。

結局、この手の問題で議論がかみ合わないのは、「コストとベネフィット」を考える現実論と、「ゼロかイチか」の極論との矛盾なのだろう。科学的であろうとすればするほど、科学が万能ではなく、だからこそ謙虚な態度で臨む必要がある…ということを痛感させられる。逆に怪しげな主張を繰り広げる陣営は、「科学」の錦の御旗のもとに堂々と「エセ科学」を展開していく。余りにもそういう事態が進行してしまっているため、「ダイオキシン」、「環境ホルモン」、「温暖化」等といったキーワードを耳にした瞬間、色眼鏡で見るようになってしまったのは、極めて不幸なことだ。

たしか池田清彦によるものだったと思うのだが、以前にどこかで「QOL(=Quality Of Life)」について語った文章があった。QOLとは、いわゆる終末医療において、薬や機械で闇雲に延命処置を施すよりも、「よりよく生きる」ことを考えるべきだ、という主張であり、安楽死・尊厳死問題でもよく出てくる。以前の僕は、特に自己決定による尊厳死には賛成の立場だったのだが、「そもそもQualityをどう考えるのか、また、本当に人間は『自己決定』なんて出来るのか、QOLを伴わない生であれば終えてもよいという発想は、実はホロコーストだ」という文章に衝撃を覚え、いまだに自分の考えの整理が仕切れていない。エコロジストを装うエゴイストには書けない文章だ。
posted by としゆき at 13:22| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月14日

「いろいろあった。」

前回の日記で子育ての事について触れたが、もうちょっと問題を限定して(特に受験対策としての)国語教育について考えてみる。
思い返せば、典型的な「理科系」学生だった僕自身は国語が大変苦手だった。単純な記憶が余り好きではなかったので、たとえば化学よりも、基本法則だけから多くのことが演繹されるも物理が得意だったし、大学での専攻も物理を選んだ(数学科出身の会社の後輩に言わせれば「数学のほうがもっと覚えることは少ないですよ」)。一方で、国語は試験の点数も安定せず、毎回がギャンブルに近いような状態だった。それでもパターン化された古文や、ロジックが分かりやすい漢文等は好きだったが(様々な故事が取り上げられることもあって興味を持ててたせいもある)、現代文に至ってはそれこそ「珍文漢文(ちんぷんかんぷん)」状態だった。
半ば現代文を捨てていた受験生時代、それでも何とかしなければ…と思いながら見つけ出したのが「田村の現代文講義」という、当時代々木ゼミナール講師であった田村秀行氏による参考書だった。特にセンター試験用の巻では、5択の選択肢を「…だからナシ。」と切って捨てる明快さに引かれ、本番までに何度も読み返し、スポーツで言うところのメンタル・トレーニングにまで使っていた。
何とか受験を終えて無事大学生となってからは、もちろん現代文の試験を受けるという機会からは遠ざかっていたが、ある日「秘伝 中学入試国語読解法」という本を手にした。夏目漱石研究で知られる石原千秋氏が、自身の子息の中学入試体験を契機に中学入試の国語問題を分析して成った書だ。前半が受験生の親としての体験記であり、後半が実際の入試問題研究となっている。中学受験未経験者として、前半を読み物としても楽しめたし、後半は実際に問題を解きながら、いかに中学入試国語のレベルが高いかを思い知らされた。
その後、「小説入門のための高校入試国語」「評論入門のための高校入試国語」では高校入試を、「教養としての大学受験国語」「大学受験のための小説講義」では大学入試を分析している。
(僕も含めて)現代文が苦手な人は、直感的な読み方をしてしまうことが多く、分かったような、分からないような、その場その場で、行き当たりばったりの姿勢で文章を読んでいることが多い。石原氏は明確に現代文読解には「枠組み」が存在し、ある意味「お約束」に基づくと述べる。「国語ではルールがあるにもかかわらず、それを教えてくれない。いや、ルールを学ぶことが国語の目的だと考えられている」(前掲「小説入門…」)。そうなのだ。隠れたルール、そして隠れたゲームの目的を知らないまま、闇雲に動き回っている事のなんと多かったことか。まさに目からウロコ、とはこのこと。受験生時代にこれらの本が出版されていたら、もっと現代文を好きになれたかもしれない。
同じく入試国語を題材にした清水義範の「国語入試問題必勝法」という本もある。彼得意のパスティーシュ技法で入試国語を斬っている。石原氏の本ほど実際には使えないだろうが、高校時代の担任は真剣に必読参考書として挙げていた。実際の現場の国語教師は、こうした本を読んでどのように感じているのか、機会があったら是非聞いてみたい。
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2006年05月07日

子育て

新聞の新刊広告で「ヤバい経済学」という本を見かけ、面白そうだったので早速読んでみた。この手の「世の中を経済学的な観点で眺めてみる」系の本には結構掘り出し物が多い。たいていは身近な話題への統計を用いた実証分析なのだが、直観や思い込みに反した結果が述べられて(そういう結果をことさら選んでる部分もあるが)、「頭の体操」としてなかなか面白い。たとえば本書で述べられている「人工中絶によって犯罪が減少した」という話題は、現在でもアメリカ国内で様々な議論を呼んでいるらしい。
類書としては、やや「経済学」的ウェイトが高いが、「経済学の正しい使用法」や「バロー教授の経済学でここまでできる!」も面白かった。「高額所得者のへの増税はネットの税収を減少させる」とか、「麻薬への規制を緩和してタバコ並に」とか、こちらにも刺激的な論考が並ぶ。
さて、「ヤバい経済学」では、後半で子供の教育が取り上げられており、果たして親はどこまで子供の成長に関与できるのか、というテーマが議論されている。たとえば育て方と子供の学業成績との間には、本を読み聞かせたり、子供を美術館巡りさせたりしてもプラスの相関はなく、子供をぶったり、テレビを多く見せてもマイナスの相関はない…というものだった。というよりも、「親が何をするか」よりも、「親がどんな人か」と言うことのほうが相関が高いと言うことになる。母親のお腹にいるうちからモーツァルトを聞かせてみたり、日本語も出来ないうちから英語漬けにしてみたりしてもあんまり意味はなさそうだ。
あと、親の教育水準や人種による子供の名前の分析も面白い。時系列を追うと、高所得・高学歴の親の間ではやった名前が、低所得・低学歴層へと浸透し、陳腐化していく。珍奇な命名がはやっている昨今、日本版の研究結果を是非見てみたい気がする。以前、「“子”のつく名前の女の子は頭がいい」という刺激的な題名の本があったが、もちろん、上で述べた子育ての議論同様、「子」を付けさせすれば万事うまくいく…という訳ではないので念のため。
僕には子供がいないが、もしいたらもちろん「ちゃんとした」子供に育って欲しい、と思う。巷間俗論・暴論も含めて様々な「理論」が語られることが多いが、対照実験や繰り返し実験がきかない分野だけに、せめて間違った方法論だけは採りたくないなぁ…なんてことは親になってから心配することにしよう。
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